学園祭回顧録:大学1年の頃(第47回駒場祭:10月中旬~当日)
【1996年(平成8年)】
10月下旬か11月上旬頃に、ある人が駒場祭委員会の部室(学館211)を訪れ、当時の企画局長と話をし、何か本部企画で面白いことができないかという話が出てきた。そしてそれが「空白最強ライブ」だった。僕は最初の時期は関わっていなかったが、途中から企画局長に誘われたこともあって、この企画の主に裏方の作業に関わるようになった。
しかし今思うと、関わろうと決めた僕はまだ甘かったと思う。というのも、この頃僕は広告局関連の仕事はさほど忙しくなかったが、運営委員の査定作業の手伝いといったKFC_SYSYTEM関連の仕事と、駒場祭当日の諸注意などをコンパクトにまとめたmini-almighty(通称mini-mightyで、この年は駒場祭前日、当日に配布した)の編集作業にあたっていて、かなり忙しかった。加えて僕は、駒場祭の当日というものがどれほど忙しいものかを予期していなかった。そのため僕は、当日付近なら今の仕事もなくなり少しは手伝えるのではないかなどと、甘い考えをしてしまったのだ。
実際はというと、この年は委員数がそんなに多くなかったこともあって、当日に他の企画に関わる時間などなかった。けれど僕はそんなことは知らずに、11月上旬にこの企画の手伝いを買って出てしまった。おかげで11月中旬から駒場祭のある11月下旬にかけては、体力的にとても辛かったと記憶している。特に駒場祭のある週(この時は木曜4限からが準備時間で金、土、日が本番だった)は、月、火、木、日とほぼ徹夜状態だった。駒場祭当日の総会である先輩に、自分の限界以上の仕事は追うものではないと、ひどく怒られた覚えがある。
またこの企画に関しては個人的にいろいろな思いがあるのだが、それはここでは触れないで置いた方が良いだろう。結局僕はこの企画で行うことになっていたカラオケ関係のテープとCDとその資料を作ったりなどしただけで、当日の企画についてはぜんぜん手伝えず、見ることすらできなかった。またこの企画自体、当日に様々なトラブルがあり、初日しか行うことができなかった。このトラブルは駒場祭二日目の総会で2時間近くの時間をとるほどの大問題となったが、そんなこともあって、僕にとってこの企画は何とも後味の悪いものとなってしまった。
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6月から準備を重ねた第47回駒場祭は、11月の22(金)、23(土)、24日(日)の3日間に渡って開催された。当日の思い出はというと、実はあまり良くは覚えていない。ただただ疲れたという思いだけが残っている。それは先ほどの空白最強ライブのこともあるが、そのほかに色々あったからのような気がする。
まず前日準備の21(木)だが、この年は日程の関係で準備時間がうまくとれず、英Ⅰが終わった木曜4限からが休講となって準備時間にあてられた。僕はというと、先にふれた資材局長の友達を手伝って、中庭で資材配布の手伝いをした。確か午後1時くらいからはじめたが、結局7時くらいまでかかった覚えがある。
その後ちょっとした撤収作業があって総会があった。その総会が終われば、同窓会館に行って寝るだけだったのだが、この時ちょっとパソコンにトラブルがあって、僕は結局その復旧作業に追われて、この日は朝まで起きていてしまった。トラブルといっても、原因はパソコンでなく、本部にあった。この第47回駒場祭から、ロッカーが入った7号館に代わって、駒場祭委員会の当日本部が屋外プレハブに移ったのだが、この屋外プレハブの電源関係が不安定で、パソコンがうまく起動しなかったのだ。それで運営委員の集合場所になっていた1号館の127教室にパソコンを持っていて、そちらでセッティングをした。確かディスプレイがいかれてしまったので、次の日の朝生協の学生委員会からディスプレイを借りたような覚えもある。本当は電算局長であった先輩がその復旧作業をする予定だったが、その先輩が事務局長であり色々と忙しかったこともあって、代わりに僕がすることになったのだ。
おかげで次の日の22日は、正門でプログラムを売ったりプロパン撤収の運営委員を指揮したりと色々あったはずなのだが、ほとんど記憶にない。そしてこの日は空白最強ライブだったか、当日に未申請で飛び入りした企画だったか、あるいは入場料の徴収をある雑誌にすっぱ抜かれた企画だったかのために総会が延びて、終わる頃には23時を過ぎていた。僕はというとさすがに疲れていたので、その日は終電で家に帰った。けれど終電でつい居眠りをしていたら、駅を通り過ぎてしまい、3駅くらい先から2時間くらい歩いて家にたどり着いた頃には、午前3時過ぎだった。おかげで次の23日の駒場祭は遅刻してしまった。
遅刻した23日は、本部企画で「GARNET RAGE LIVE」というのがあって、僕はその出演バンドの世話役をしていた。世話役といっても、弁当を届けたり、控え室をきれいにしたり、または買い物を頼まれたりと、色々な雑用をやっていただけのように思う。出演者の奥さんが子供を連れてきたのだが、その子供が控え室でお漏らしをしてしまって、その後始末に右往左往した記憶がある。そういえばこの日は、資材局長だった僕の友達が過労で倒れていたような気がする。また同じく施設担当だった友達も朝倒れていた。原因はこの本部企画で使用するステージのバックボードを、22日に徹夜して作ったからだったと思う。
この23日の夜は久しぶりにゆっくり眠れて、駒場祭はいよいよ最終日の24日となった。けれどこの日昼間にあったことは、実はほとんど覚えていない。むしろ記憶がはっきりしているのはこの日の夜だ。駒場祭の伝統行事である清掃チェックが終わった後、駒場祭委員総出で清掃チェック逃亡企画の清掃と、屋内のトイレ掃除、またトラックでの立て看板、ゴミ箱の撤収を、これまた夜通しで行った。最後の最後ということもあって、みんなテンションが高くて、やけにハイだったと記憶している。一通り作業が終わった後に、先輩が本部のストーブでおでんを利用して作ってくれたが、そのおでんがとてもおいしくて、怒涛の駒場祭を終えた実感が一緒にこみ上げてきて、ひどく感動したものだ。
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僕にとって第47回駒場祭は、特に体力的な面で、大学四年間の中で一番辛かったと今でも思っている。けれど大学を入学してから駒場祭の業務がほぼ終わった12月の中旬までの間に、僕は本当に色々なことを学ぶことができた。それは「計画を実現する楽しさ」であり、また「皆で共同作業をする楽しさ」であった。もちろんその中には、「自分の能力以上の仕事を請け負ってはいけない」というものや、また「人間の体はそう無理は効かない」などの教訓めいたものもあったが、何より「大学の学園祭の魅力」というものを、僕はこの7ヶ月を通じて強く実感することが出来た。
この期間本当に色々なことがあり、それは楽しいことばかりでなく、辛いことや苦しいことなども多くあった。そんな中で、駒場祭委員会を去ってしまう人もいた。かくいう僕も、10月頃までの間は正直来期を続けるかどうかも迷っていた。けれど駒場祭の本番を終えた頃には、何か自分の中に、来年の駒場祭に向けて色々やりたい夢のかけらのようなものが芽生えてきて、そして僕はその夢の成長を、それを実現させてみたい、あるいは自分の力を試してみたいという気持ちを、抑えることができなかった。
こうして僕は、駒場祭が終わっても委員会を離れることはなく、次のイベント、新入生のオリエンテーションというイベントに、関わることになったのだ。
第47回駒場祭
1996年(平成8年)11月22~24日「Stop to Start~今、立ち止まる瞬間~」
鳩山由起夫、邦夫兄弟が揃って駒場祭に訪れ、話題となった。他に星野英一氏、栗山尚一氏の講演会などがあった。本部企画には、在日韓国人2世の趙博氏のライブ、安楽死の問題に関するシンポジウム、「これからの日本の行く末-環境問題の視点から」と題する講演会などが選定された。企画が使用する椅子、机などの盗難が起こり、救急を呼ぶほどの泥酔者も相変わらず出るなどした。この年は企画の入場料徴収を届け出制としたが、入場料を取っていたある企画が雑誌で報道されたことで学部側は懸念を示し、翌年からは再び入場料徴収は禁止され、今に至っている。予想以上に不況のダメージは大きく、委員会財政が200万円を超える赤字となり、翌年から新入生1人あたりの運営費負担額が2000円から2500円に値上げされることとなる。
(駒場祭50回記念企画配布冊子「駒場祭の過去・現在・未来」より)
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