学園祭回顧録:中学3年の頃(天童四中生徒会)

【1992年(平成 4年)】

僕が中学3年になる時、新しい中学が設立された。当時天童市には3つの中学があったのだが、僕がいた天童二中が1000人を越える大御所だったこともあり、もう1つの中学校を設立しようという動きは前々からあった。そして僕が3年になる4月に、二中と三中の学区の一部を併合する形で第四中学校が新設され、僕も含め二中に通う生徒の6割近くが四中に移動することになった。

中学3年の頃の思い出で多いのは、文化祭ではなくむしろ生徒会の活動だ。この時僕は生徒会長をやっていたのだが、創立期ということもあって、生徒会関係の仕事はかなり多かった。開校式、入学式、生徒会発足式、創立記念式などなど、たくさんの式に出てはたくさんの文章を読んでいた。今でもはっきり覚えているのは入学式で新入生に向かって呼びかけたあの言葉だ。

「天童四中は一枚の真っ白な絵のようなものです。この絵を何色で染め上げていくか、それは私たちで決めることです。先生と生徒で協力して、一枚のすばらしい絵を描いていきましょう。」

今でも僕がよく使う絵と色の比喩だが、元々このアイデアを教えてくれたのは、僕の文章の指導をしてくれた国語の先生だった。開校式で僕が四中のことを「赤ん坊」と比喩したことにちなんで、今度は「白い絵」として見たらどうかと提案してくれたのだ。この提案がなかったら、僕がこれほどまでに比喩を多用した文章を作ることもなかっただろう。先生には本当に感謝したい。

四中の行事は、全てに「第一回」という冠がついた。そのため運動会・文化祭・合唱コンクールなどの行事の企画には非常に苦労した。グランドが3年間手入れされていなく、草がぼうぼうの状態であったために、運動会の種目に「草刈り合戦」をいれたこともあった。文化祭では全校クイズや生徒会劇も行った。全てが始めてのことだったので、生徒も先生も、様々な知恵を振り絞っていた。大変ではあったが、それはとても楽しかった。

けれども「第一回」の様々な行事は、全てが楽しいものではなかった。「第一回」あるいは「第一期」であることによって、様々な辛いことが多かったのも否めない。その一つが「校則作成」だ。新しい中学校であったため確たる校則がなかった四中は、全く一から校則を作成する必要があった。そして先生の中でも生徒の中でも、今までの中学とは違う新しい校則を作ろうという雰囲気があった。

校則作成の大まかな流れはこうである。まず生徒会のメンバーの中に校則作成グループをつくって、そこで草案をまとめる。それを生徒総会(全校生徒が参加して生徒会の様々なことを決める場)にかけて決をとり、それを職員会議に提案する。最後に職員会議でその案をもとに最終案を作成し、議決をして、四中の校則として掲げるのだ。

しかし校則など作ったこともない生徒が校則を作るのだ。そこには様々な問題が出てくる。まず基本的に生徒側は校則をあまり良しとは思っていない。あれも変えたいこれも変えたいという様々な要求が出てくる。これに対して先生側は、確かに今までのとは違う校則を作ろうという思いがあるが、しかしそこにも「限度」を考える。生徒側の要望を全部受け止める訳にはいかないのだ。

校則作成に当たっては、生徒は生徒の視点で考えた案を作る。先生は先生の視点で考えた案を作る。そして最終的にはその折り合いをつけなくてはならない。ではその折り合いは誰がつけるのか。どうつけるのか。校則作成の背後には、このような根深い問題が存在していた。しかし当時の僕はそこまで深く考えたりはしなかった。生じるであろう生徒側からの様々な要求も、それに対しての先生側の答えも、予期することはできなかった。

生徒会のメンバーの中で草案を作る時、そこからすでにちょっとした対立はあった。生徒会の中での案をまとめる、それを顧問の先生が見る、意見を言う、それに対して質問が飛ぶ、そんなやりとりは確かにあった。しかしその対立が激化することはなかった。それはお互い知った仲ということもあったのだろう。とりあえず草案は何とかまとまり、後はそれを生徒総会にかけるだけになった。

そして生徒総会。ここで事件は起こった。生徒会側の出した草案に対して、様々な意見が出たのである。例えばこうだ。

「パーマはいけないとありますが、何故ですか?またストレートパーマだったらいいのではないですか?」

このような質問に対する答えを、僕は持っていなかった。そしてそれをどのように審議し、処理すればよいかも分からなかった。このような質問に、最終的に僕がどのように答えたかは覚えていない。ただ覚えているのは、答えるために演台に上がった僕がいつのまにか議長の役を奪い、議場をとりしきってしまったこと。そして結果としてこのような質問を認める形で草案に盛り込み、最終的な案として可決させたこと。生徒総会中に先生から思いっきり怒られたこと。その後議長に役を返し、正式に決をとってもらったこと。それぐらいだ。

この顛末を端から見ていた人にとっては、台上で慌てふためく僕の姿はひどく情けないものに見えただろう。そして僕自身もまた、自分自身がひどく情けなく思えた。ひどくショックだった。そしてこの事件は、高校で起きたもう一つの事件と相重なって、今でも僕の心の中に強く傷を残している。

結局校則は、生徒総会で新たに盛り込んだ部分は職員会議で否決され、最初の草案をベースに手直しされたものが新しい校則として掲げられた。これに対して、おそらく様々な人の様々な思いがあっただろうが、それが表に出ることはなく、平穏に時は流れていった。

「みんなで和気あいあいと一つのことを作り上げる」。そんな喜びや新しい世界への好奇心から立候補した「生徒会長」という役職は、楽しいことも多かったが、辛いことも多かった。基本的に「生徒会長」という役職はスタンドプレーが多かった。入学式や創立記念式での様々な挨拶、または全校朝会での呼びかけや校歌の指揮など、僕は様々な場面で「生徒会長」という役を演じなければならなかった。そしてその役を演じている時、たいてい僕は「一人」きりなのだ。

それに輪にかけて、僕は「みんなで和気あいあいと一つのことを作り上げる」という喜びを、自分から投げ出していた。みんなと一緒に考えたりみんなと一緒に行ったりすればいいことも、僕は一人で考え、一人で実行するようになっていた。それは人に頼み事をするのが苦手ということもあっただろうし、一人で仕事をこなしていくことに屈折した喜びを感じていたこともあったと思う。

12月になって次期生徒会が発足したとき、僕は生徒会長の任務から「解放」された。そう、「解放」されたという思いが強かった。そこには一つの辛い作業を成し遂げたという達成感があり、これで僕の役目は終わったという老人にも似た思いがあった。そしてそんな思いを抱えたまま、僕は中学を卒業し、僕の中の一つの時代は終わりを告げたのだ。

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