学園祭回顧録:中学2年の頃(天童二中文化祭)
【1991年(平成3年)】
文化祭のほとぼりも覚めやらぬ12月に、生徒会の選挙があった。その頃から僕は生徒会の方に興味を持ち始めていて、選挙には出なかったが、事務局員という役職につくことになった。何故生徒会に興味を持ったかは、はっきりとはわからないのだが、何か生徒会をやらなければという使命感や義務感のようなものがあったような気もする。そしてまた普段の授業や部活とは違うことをやってみたいという好奇心もあったような気もする。文化祭での楽しい経験も、その興味にちょっとは関係していたのかもしれない。
そんな流れで、中学2年の文化祭には、僕は生徒会役員として深く関わった。クラスの方でも合唱コンクールに出たりはしたが、この年はクラス展示のような企画はなかったので、クラスの方はそれほど忙しくはなかった。
生徒会の中で僕が手伝った仕事は、まず開祭式での垂れ幕づくりと、同じく開祭式での喜劇「一杯のかけそば」のナレーター。このナレーターの締めの言葉が、そのまま開祭宣言へつながっていくという構成だったのだが、それは「今日の文化祭は、みなさんの努力の発表会です。」というようなセリフだったと記憶している。このような言い回しを当時から僕は愛用していたようだ。
他に手伝った仕事は、音楽部や吹奏学部などの演奏系発表企画の進行役(といっても時間が来たら呼びに行くようなもの)と、あとは壁画の制作だ。この壁画は昨年のクラス展示とは違い、全校生徒で壮大な一枚の壁画を完成させようという企画で、空き缶で富士山を作り上げようというものだった。
何分当時うちの中学は全校生徒が1000人近くおり、クラスも一学年8クラス近くあった。その各クラスが壁画の一部を制作し、文化祭前日にそれを全部つなぎ合わせて、巨大な壁画を作成しようというその企画は、当初無謀かとも思われたが、無事当日に完成し、かなりの注目を集めるに至った。けれど前日のつなぎ合わせる作業はひどく大変で、空き缶と言えど集まればかなりの重量になるので、みんなで一生懸命つるし上げたものだ。
文化祭の準備は、二学期が始まった8月下旬から少しずつ開始されていたのだが、9月下旬や10月になると、毎日その準備で生徒会室に足を運んだ。運ばなくてはならないという訳でもないのだが、意味もなく生徒会室に集まっては、準備の傍ら無駄話に花を咲かせていた。当時同じ学年の生徒会役人は僕も含めて4人いたのだが、その人達とはずいぶん仲良くなった。生徒会の先輩とも仲良くなった。夜遅く(といっても20時頃だが)の学校はひどく怖くて、肝試しみたいなことを何人かとやった思い出もある。
そのころの僕は、生徒会の仕事が楽しいとか、文化祭が楽しいとかというよりも、みんなで和気あいあいと、何か一つのことを考えたり、ものを作ったり、行事を完成させたりすることがひどく楽しかった。文化祭の他にも、運動会や3年生を送る会や修学旅行の準備など、主要行事にはたいてい関わっていた。その都度一緒になるメンバーが入れ替わったりしていたのだが、そこもまた面白く、楽しかった。