学園祭回顧録:大学1年の頃(入学~新フェス)

【1996年(平成8年)】

中学から高校へ移った時も、通学手段が徒歩から電車に変わるなどそれなりの変化が生活の中にはあったが、それは高校から大学へ移った時ほどではなかった。東京大学になんとか合格した僕は、地元の山形から上京し東京で一人暮らしをすることになったのだが、東京での生活は山形での生活とは大きく違っていて、最初の頃はとまどいと同時に驚きと感動で一杯だった。雑誌が発売日にちゃんと発売されていたり、電車が10分に一本はあったり、今思うと些細に思えることも、あの頃は新鮮に感じられたものだ。

そんな生活での影響もあり、大学に入った僕は何か新しいことをやろうという気持ちで一杯だった。そして大学の自由な環境は、僕のそんな気持ちに十分に叶うものであった。サークルを選ぶにしても300に近い選択肢がある。またそれ以外に自分だけのサークルを作ることだって可能だ。サークルに入らなくてもアルバイトに精を出すという生活だってある。もちろん勉学に熱中してもいい。まさしく僕は、突然大海原へと放り出された航海者のように、道なき海を自分の思いだけで進む自由を得たのだ。

「あの頃違う道を選んでいれば、僕はどんな生活を送っていたのだろう。」3年もの大学生活を送ってきた現在、そう思う事が時々ある。そしてその度に僕はこう思う。「違う道を選んだ僕は、おそらく今とはまるで違う自分になっていただろう。」あの頃の僕は、そんな人生の分岐路のただ中を歩んでいた。そして僕は、そんな無限にも近い分岐路の中から、一本の道を、「学園祭」という道を選び、そして今まで歩み続けてきたのだ。

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4月の始め、大学での入学手続きも終わり山形へと戻る新幹線の中、僕は手続きでもらった膨大な量の冊子とビラを眺めていた。それはほとんどがサークル勧誘の内容のものだった。そして僕が一番最初に選んで読んだものは、学園祭の委員会が発行していた学園祭の紹介冊子だった。

僕はそのころ既に、大学に入ったらやりたいこととして、いくつかのことを考えていた。一つは学園祭や自治会などの、いわゆる自治団体の活動だった。これは高校での経験が大きく影響していたのだろう。特に学園祭については、高校の頃から良く聞く大学の学園祭というものに、一つの憧れのようなものを抱いていたので、大学になったら是非やってみたいと思っていた。もっとも憧れといっても、僕は当時大学の学園祭には1回も行ったことがなかったので、ほとんど伝聞や推定によるものであったが。自治会は、高校での生徒会の延長として考えていた。高校最後の提言の会の活動が、やはり影響していたのだと思う。

入学手続きでサークルの勧誘を受けた時も、僕は大体「学園祭や自治会とかをやろうかなと思っているので」と答えていた。まあ一つの逃げ口上であったのも否めない。こう言うと大抵のサークルは素直に見逃してくれるのだ。あるところには「僕と君では住む世界が違うようだね。」とも言われた。最初はあまりこの意味が分からなかったが、大学に入ってしばらくしてああなるほどと思ったものだ。

当時僕は大学についてほとんど知識がなかった。自治団体とかを考えていたけれども、大学の自治団体がどういうものかについてはあまり知らなかった。けれど大学に入って、特にうちの大学の場合は、「自治団体」という言葉には「学園紛争」のイメージが強くついて回ることを知った。そのため他の学生からは少し敬遠される存在だったのだ。

実状はというと、確かにその血を色濃く受け継いでいるところもあったが、ほとんどは「普通」の団体だった。けれどもその「普通」も他の人から見た「普通」とはちょっと違うのかもしれない。ともかく当時は、「自治団体」という言葉の持つイメージも、実状も僕はよく分からず、「自治会」とか「自治団体」とかいう言葉を良く連発していた。そのため他からは「危ない人」と思われていたのかもしれない。

他に考えていた方向性としては、「マラソン」と「音楽・演劇」がある。僕は中高と陸上部で、かつ長距離をやっていたので、それも少し続けたいなと思っていた。ただ正式な競技としてよりは、趣味として続けたいと思っていたので、マラソンやジョギングのサークルを探していた。

「音楽・演劇」には元々興味があった。ただおそらくその興味は、学園祭への興味と相通じるものがあっただろう。中学校の文化祭では毎年合唱コンクールがあったし、また毎年何かしら生徒会劇があり、それにも出演していた。高校1年で演劇をやったことも影響したのかもしれない。小学校の時も、毎年秋にある演劇会に6年連続で出演していた。そういう意味で、音楽や演劇、特にミュージカルのようなものを、何かやってみたいと思っていた。ミュージカルについては、高校3年の山東祭で踊ったあの踊りと、その年の3月に見た劇団四季の「オペラ座の怪人」が大きく影響していたのだろう。

そんなこともあって、4月のサークル選択の頃は、駒場祭の委員会と、マラソンサークル、音楽サークル、競技ダンス、後は環境系のサークルなどに顔を出したりしていた。けれど6月頃には駒場祭の委員会とマラソンサークルくらいにしか顔を出さなくなり、9月頃にはマラソンサークルにも行かなくなって、結局駒場祭の委員会一本となった。そうなったのは、徐々に駒場祭の準備が忙しくなって、他のことに手が回らなくなったこともあるのだが、それよりも僕自身が、駒場祭にのめり込んでいったことが大きいだろう。それだけその頃は、駒場祭の様々な準備が楽しかったのだ。

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僕が駒場祭にのめり込むようになったのは、その前にあった2つのイベントが大きく関係している。一つは5月上旬に行われた全都新入生歓迎フェスティバル(通称「新フェス」)、もう一つは6月下旬のCruisingPartyだ。

新フェスは、都内のいくつかの大学が合同となって行う、新入生歓迎の学園祭のようなもので、色々な大学の新入生クラスが行う模擬店企画と、新フェスの実行委員会が企画している文化企画(講演会など)からなっている。この他にもスポーツ大会などがあったと思うが、あまり良くは覚えていない。4月中旬、この新フェスにうちのクラスも参加しようということになり、僕もその準備に少し関わった。

関わったといっても、僕はクラスの模擬店の方はほとんど手伝えなかった。こちらはクラスの自治委員(学級委員のようなもの)が中心になって準備をすすめており、僕はそちらにはほとんど関与していなかった。僕が関わったのは、クラスのではなく、新フェス全体の準備の方だった。

新フェスでは、参加クラスから1名、新フェス全体の準備のために人を派遣することになっていた。僕はクラスの自治委員から頼まれて、その派遣役を行った。それはその年の新フェスの会場が学芸大で、僕の住んでいる府中から割と近かったこともあったのだろう。ただし近いといってもそれは直線距離上の事で、電車で行くにはかなり大回りをしていく必要があった。仕方がないので僕は、自宅から自転車で学芸大まで準備にいった。それでも40分はかかってしまったが。

その年の新フェスは、ゴールデンウィークが開けてすぐの日曜日にあったので、準備はゴールデンウィーク中に行われた。僕ら派遣役も朝早くに学芸大に集められ、様々な準備を手伝った。

僕が手伝ったのは新フェス用のゴミ箱を作る作業だった。まずは車で近くのスーパーにゴミ袋を買い占めに行き、その道がてら余った段ボールを収集して回った。それでも段ボールが足りなかったので、今度は学芸大の周りの商店を徒歩で回って、いらない段ボールを集めて回った。

段ボールが集まったら、今度はそれに紙を貼り、上からマジックで「燃えるゴミ」などと書いて、簡易ゴミ箱を作成した。なにぶん数が多かったので、それらを作り、構内の各所に配置する頃には、とっぷりと日が暮れていた。

段ボール作成の作業では、他の大学の人もけっこういたし、僕と同じく駒場祭の委員会に入っていた人もいたので、和気あいあいと楽しく行えた。何人かの他大学の人と友達になり、新フェス当日にはお互いに模擬店のチケットを交換しあった。思えば新フェス以来その人達とは一度もあっていない。今はどうしているのかなと思うと、ちょっと懐かしくなる。

新フェス当日、うちのクラスはホットケーキの模擬店を行ったが、けっこう盛況だったようだ。ただ人手はちょっと余り気味で、多くの人が手伝いに来ていたのに、狭いテントには入りきれなかった。それでチケットを売りに構内各所を巡りに出ると、同じような境遇にいる友達が結構いて、その度に互いのチケットを交換した。写真を撮りに来た駒場祭の委員会の先輩にも会い、クラスの写真を撮ってもらったりした。

新フェスが終わった後は、クラス全員でコンパをする予定だったが、会場予約がうまく行かなかったようで、結局その場で解散となった。その後僕は何人かと、近くの友達の家で飲み会を行った。みんな知り合って1ヶ月しか経っていない仲だったが、結構盛り上がり、色々な話をした覚えがある。ただ友達の一人が酒を飲み過ぎて気持ち悪くなり、吐いてしまった時にはちょっと驚いた。別に大したことにはならなかったのだが、お酒には気をつけないとなと思ったものだ。

用語説明

駒場祭:1、2年生が主に通う東大駒場キャンパスの学園祭で、毎年11月に行われる。東大にはこの他5月に五月祭という学園祭があり、こちらは3、4年生が主に通う本郷キャンパスで行われる。

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