学園祭回顧録:大学1年の頃(第47回駒場祭:1+1が2となる楽しさ)
【1996年(平成8年)】
Cruising Party以来、先輩方の様々な技術やノウハウを学んでは、自分の出来る範囲を広め仕事の処理スピードを速めることに精を出していた僕であったが、それは更に僕の「1人で仕事をする癖」を強めていった。悪く言えば、当時の僕は他人に頼まなくても済むほどの仕事能力を自分で身につけたいと思い、実際多くのことを自分1人で片づけようとした。そしてまた駒場祭委員会の体制は、そんな僕の性癖にとって都合のいいものであった。
先に述べたように、僕は1人で広告局の仕事を行っていた。KFC_SYSTEMの作成も1人だった。Almightyの編集も、表紙と中身に分かれはしたがほぼ1人であった。それは僕だけでなく、他の人も主に1人で自分の仕事を行うことが多かった。これは業務量に対して人手が足りないという問題から来るものであるが、基本的に1人で仕事を行うというその体制は、僕にとって居心地が良かった。
駒場祭委員会の体制は、良く言えば「少数精鋭」であり、悪く言えば「孤独な仕事虫の集まり」と言えるかも知れない。人数が少なかったが、その人数の少なさを嘆くよりも、むしろ喜ぶ傾向に当時の僕はあった。それは人が去り行く寂しさの裏返しでもあったのだろうが、自分にのしかかる膨大な仕事をこつなくこなしていくことに何とも言えない喜びを感じていたのも真実だ。
けれどもそんな僕の性癖は、駒場祭の業務を通じて強まりもしたものの、弱まりもした。一人で行う業務の他に、皆で行う業務も駒場祭委員会には多かった。例えば先のAlmightyの作成。印刷、まぶし、製本、折りという作業は何人もの委員で、徹夜ながらも和気あいあいと行った。そして大学卒業生への賛助依頼も、封筒の準備や送付の手続きは僕がしたものの、手紙を封筒に詰めたり、タックシールを封筒に貼ったりする作業は皆で行った。全部終わるには一週間近くかかったが、とても楽しかったと記憶している。
そして総会だ。総会にはほぼ全員の委員が出席して、それぞれの業務の報告や、あるいは委員会全体として考えなければならないことを審議し決定するのだが、駒場祭までに二十数回行われ、夕方から始まり日をまたぐことも多くあった。そのため自宅生の人は途中で帰らなくてはいけなくなったのだが、一人暮らしの僕はたいてい最後まで残り、結果大学に泊まった。総会が終わった後みんなでラーメンを食べにいったり、寝る傍ら無駄話に花を咲かせたりなどして、とても楽しかった思い出がある。
このように駒場祭委員会では、1人で行う業務も多かったが、皆で行う業務も多かった。1人で行う方に偏っていたようにも思えるが、それでもうまくバランスがとれていた。僕は1人で仕事を行う楽しさと、皆で仕事を行う楽しさという、ともすれば相反する2つの楽しさを同時に得ることができた。「単独」の作業が多くても「孤独」を感じることはなかった。
それに加えて僕は「複数人」で業務を行う楽しさ、とりわけ「2人」で業務を行う楽しさを知ることができた。この2とか3とかという人数で作業を行うことは、僕にとってはほぼ未知の世界であったのだが、9月以降僕は2人で作業を行うことが多くなった。
2とか3とかという数が苦手なのは、基本的に僕は仕事を頼むのが下手だからだ。会議などの公式な場で仕事を頼む時はそうでもないが、私的に仕事を頼むことはほぼなかった。そのため自分の抱えている仕事を個人的に誰かに手伝ってもらうなどということは、僕は一番苦手だったのだ。
しかし8月中旬に一緒に切り貼りを作って以来、僕はある1年の委員と仲良くなった。彼もまた僕と同じく一人で仕事をこなしてしまう人であったので、同種のにおいを感じたのかもしれない。僕はよく仕事を頼み、僕もまた彼からよく仕事を頼まれた。
仕事でコンビを組むのも多かった。第三回Almightyで表紙の編集をしてくれたのも彼だし、第四回Almightyでは本編を彼が、資料編を僕が編集した。彼は資材局という、他大などから椅子や机などの資材をかりてきては、それを企画の人に貸し出すという仕事をしていたのだが、他大に借りに行くときもよく一緒にいったものだ。
彼に仕事を頼むようになってから、僕は他の人にも頼むようになった。といっても僕が頼める友達というのはそう多くはないのだが、それでも2人や3人で一緒に仕事をしたり、立て看板を作ったりしてみた。そんな時僕は、「1+1が2となる楽しさ」を感じていた。
1人でいくら仕事をやっても、しかし1人であれば必ず限界が出てくる。例えば10時間はかかる作業を一日でおわせというのは、1人ではかなり無理がある。しかし2人いればそれが一気に五時間になる。3人いれば三時間ちょっとだ。
また2人いることによって、あるいは複数人いることによって初めて可能になる事も出てくる。それまで1人では思い描いても到底実行できなかった作業も、複数人いれば実行できる。また1人で思い描けなかったことも、複数人なら思い描ける。僕はそれまで「絵を描く楽しさ」の虜になっていたが、しかしそれはあくまで「一人で絵を描く楽しさ」だった。一人で青写真を描き、一人でそれを実行し、実現させる。それも確かに面白く喜びはあるが、しかし人数が多くなればより壮大な絵を描くことができる。壮大な青写真のもと、そしてそれを確かに現実のものへとすることができるのだ。
そんな「複数人で絵を描く楽しさ」に実際チャレンジしてみたのは、大学2年の第48回駒場祭であったが、それにも大学1年の頃の経験は大きく影響したのだろう。1人で仕事をこなす喜びを得ながら、皆での和気あいあいとした共同作業も楽しめ、かつ複数人で絵を描く楽しさも得られる。僕はこんな駒場祭委員会の業務が面白くて、結果他のサークルには顔を出さなくなったのだが、それを別に悲しいとも思わなかった。少なくとも、10月の中旬までは。
僕にとって第47回駒場祭という学園祭は、確かに楽しい面も多くあったのだが、辛く苦しい面もかなり多かった。大学四年間の中で一番辛かったと、今でも思っている。そしてそのつらさは、精神的なつらさも多かったがが、それ以上に肉体的なつらさが多かった。
10月中旬を過ぎ、本番にむけて加速していく駒場祭の業務に、僕の体は疲れ果てていく。そして駒場祭当日、僕はほぼ極限状態で当日の仕事を行うことになる。その原因は色々あるが、その中に「空白最強ライブ」というある企画が関与しているのは、まず間違いないであろう。