誰のことも拝まない
もう、誰のことも拝まない。そう決めた。
人を拝まないということは、
人を尊敬しないということではない。
人を尊重しないということではない。
人を拝まないということは、
誰にもぶら下がらないということだ。
助けを求めて、救いを求めて、
自分の行く先を決めてもらうために、擦り寄らないということだ。
拝みたくなるような眩しい人に出会う。
これまでも出会った。
これからも出会うだろう。
でも彼らに近づきたくて、
知ろうとすればするほどに気付かされてきた。
本物の眩しさを放つ人は、信者など求めていない。
ただ対等に、同じ土俵で、
自分とインスピレーションをぶつけ合える人、
違う人間だということを認め合って、それを楽しみあって、
共に在ることができる人。
それを求めているのだろうと思う。
それはつまり、本物の”友情”であり、
本物の”友人”なのだろうと思う。
拝みたくなるような人を前に、
拝まない、というのは怖いことだ。
わたしはあなたよりも程度の低い人間です、とへりくだって
逃げ出したくなるような眩しさをかわす、のを、やめることだから。
今の自分では眩しくて、
そばにいるだけで足がふるえそうなすごい人を前にしても
かわさずに、避けずに、
「あなたと話してみたい」
「わたしを知ってほしい」
と、そこに踏みとどまることだから。
自分から、その人と、同じ土俵に上がることだから。
それで跳ね返されたり、無視されたり、軽くあしらわれたら
それは仕方のないことだ。
今の自分は、眩しいと思った相手にとって
そういう価値しか伝わらない人間だったということだ。
でも、
もしそうなったとしても、
磨けばいい。自分をもっともっと磨けばいい。
相手にしてもらえるまで。
あちらから話しかけたいと思わせるくらいまで。
拝みたくなるような眩しい人を前に、
お金を払って、「客」として安心して立っているだけでは、
わたしはもう満足できないんだ。
友人でありたい。
眩しい人たちと、肩を並べて、
自分を表現している人間でありたい。
だからもう、
誰のことも拝まない。
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