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何もできなかった私が、ひとつずつできるようになる過程だけが希望に思える



今日は奇跡的に、図書館に来れている。

たぶん最近買ったワンピースのおかげ。洋服とアクセサリーはわたしにとってのお守りであり、武装だ。

これでやっとnoteを更新できる、と安堵している自分がいる。

文章を書くには体調と精神面の安定が必要なので、同時に整って物事に安心して取り組めるようになるのは、なかなか難しい。


特に最近はどうしても、自宅は『休む場所』という面では非常に良い機能を果たしてくれていたけれど、なにか活動をしたり、書いたりする場所という観点からみたらイマイチだった。もともとわたしは、自宅で何事かに集中して取り組むというのがものすごく苦手なのだ。

だから高校時代は学校が終わったら図書館やカフェに寄って勉強するというのをよくやっていた。塾には通わせてもらえていなかったから。カフェがとりわけ好きになったのもその頃からだった。

脱線。

先週も、ベッドの上でとくべつな集中力を発揮して『流浪の月』と『推し、燃ゆ』を読めたのは自分でも驚きだった。感想を文章にまとめるアウトプットまではまだ取り組めていないけれど、自分のなかで様々な思いを温める期間が設けられていると考えれば、それもいいのかなと思う。思い返す。反芻する。噛みしめる。考える、時間。自分に影響を与えるうえで、大切なもの。


本との出会いは一期一会で、いくら話題になっている本だろうが、自分が興味関心を持って手に取らなければ始まらない。わたしは昔から書店での出会いを大事にしているので、なおさらかもしれない。意思を持って読む、とはそういうことだ。何を自分の中に取り込みたいと感じるか。食べるものを選ぶのにも、その感覚は似ている。


話は戻って、好きな女の子にプレゼントを贈るために郵便局へ行く用事があって、それを済ませただけでも画期的だったけど、そのあと図書館に立ち寄れたことに、しみじみと感動している。

こういう、他の人からすればまったく他愛ないことがわたしにとってはものすごく困難で、だからつまり生活はいつもわたしに立ちはだかる高い高い壁であり、日々息を吸い続けるだけでどうしようもなく苦しいのだ。

それはたぶん私が、『思考する側』の人間であることも大きく関係しているだろう。


たとえば、日本ではあまり一般に広く知られてはいないが、海外ではメジャーな認識の『ギフテッド』という概念がある。ずっと書きたかったテーマのひとつなので、今回はこれについて概要や自分の思うところを書いていこうと思う。

ここからわりと長い文章になるので、興味のあるひとは「へぇ、そんなものがあるんだ」程度の軽い感覚で読んでみてください。


ギフテッド(Gifted)、知的ギフテッド(Intellectual giftedness)とは、先天的に、平均よりも、顕著に高い知性と共感的理解、倫理観、正義感、博愛精神を持っている人のこと。外部に対する世間的な成功を収める、収めないにかかわらず、内在的な学習の素質、生まれつきの高い学習能力や豊かな精神性を持っているということである。


アメリカ教育省では「ギフテッドとは、同世代の子供と比較して、並外れた成果を出せる程、突出した知性と精神性を兼ね備えた子供のことである」と1993年に定義されている。ギフテッドにおける高度な知的能力と精神性は誕生時点から生涯にかけてみられ、知性と精神性のどちらかのみが発達しているということはない。ここが育った環境や教育環境に依存することなく兼ね備えているのが特徴だ。

『ギフテッド』という名前はそれが『先天的な』性質であることから来ており、いわゆる『英才教育を受けた優秀な子供』といった後天的な性質とは異なる概念である。


わたしは紛れもなく、幼少期からギフテッドの性質を持ち合わせた子供だった。現在に至るまでももちろんそうで、社会生活の中で非常な生きづらさを感じ続けている。

ギフテッドの特徴は、「自ら積極的に多様な『知的刺激』を切望して満たす行動をし、自分が好む学習方法で興味のある分野を深く掘り下げ探求する」性質である。学習能力が突出しているため、物事を始めると同年代の平均よりもかなり早く先のレベルまで到達できるが、反面、自分の関心のない物事に関しては全く興味を示さない上に、学習自体を放棄することもままある。


この概念を知ったのは大人になってからだけど、それに今さらだからなんだという感じだけど、少なくとも私は自分自身を理解するうえでとても役に立ったし、気持ちが楽になった。

常に周りからの奇異の目や嫉妬を浴び続け、「あさせは頭がいいから良いよね」、「なんでわたしより勉強してないのに1位を取り続けられるの?怖い」「成績は飛びぬけて良いけど、ちょっと集団に馴染めないトリッキーなところが強いから推薦を受けるのはまずいんじゃない」「自宅ではどのような教育をされているんですか?」……

そういうのが思春期のわたしにはとても負担で、孤独で、心底どうでも良くて、わたしはずっと、普通に生きたかった。自分のなかの「普通」が、みんなの「普通」と著しくずれていることが、普通にしているだけではみ出てしまうことが、ただ辛かった。

わたしは良い子だったからずっとにこにこと躱したり何も感じないふりをしたりしてやり過ごしていたけど、自分が世の中と馴染めない存在であるということの息苦しさが、わたしを徐々に押し潰していった。


「あさせはこんなに勉強ができるのに、なんでお前はできないんだ」そんな父親の怒号とともに兄に飛んでいく暴力。暴言。非難。部屋に閉じこもる兄。暴れる兄。わたしの部屋を通り道にして、顔を真っ赤にして大声をあげながら兄の部屋の扉をドンドン、ドンドン、と叩き「開けろ、出てこい」と叫び続ける声。

無理やり開かれる扉。兄と父の殴り合い。壊れる部屋の壁。二人の怒鳴り声。母の悲痛な叫び声。わたしはただ部屋で震えながら、両親への呪詛のような「あなたたちは間違っている」という論理的な言葉をひたすらノートに綴って自分を殺すしかなかった。

「父親がおかしい。兄はなにも悪くない」と割って入ったら、父親から暴力を振るわれたから。今でも思い出すたびに苦しくてたまらなくなる。うずくまって心臓を必死におさえないと耐えられなくなる。

これはわたしのパンドラの箱だ。ずっと心の奥に、誰にも話せず封じていた、決して触れてはいけなかったパンドラの箱。


わたしは何も悪くなかった。兄もそうだ。でもわたしはどうにもならない目の前の現実を前に、私が悪いと思うしかなかった。

存在するだけで、わたしは周囲の人たちを傷つけてしまうんだ。特異で、異端で、浮いてしまう能力を持っているから。それがいくらわたしにとって『普通』でも、周りの人たちからしたら恐怖で、理解しがたいバケモノみたいな対象になり得るものだから。

この経験からくる思いは、わたしのアイデンティティを根底から否定するものであり、自分の中に「ありのままの自分でそこにいて大丈夫だという感覚」が育ちようがなかったのは仕方ないと思える。


ギフテッド特有の、他者に対する極度に高い共感性や人の気持ちを読み取る能力もあったので、わたしはものすごく慎重に他者の前で振舞うようになった。人の顔色を読み、人の望みを本人に気づかれずに叶える。求められた役割を果たし、他者に貢献する。でもそれは、そうしなければ自分を守れなかったからであり、切実な生存戦略だ。わたしはずっとずっと、10代のあいだを「他者のために生きる」をしてきた。そして本当の自分自身は、どこにも居場所がなかった。孤独だった。

そして、そうしてまで努力して生きてきても、人生のなかで住居がなかった時期や、突然の兄の癌発覚、宗教の問題など、さまざまな試練ばかり立ちはだかり、21歳の秋に、壊れた。鬱病になり、自宅のベッドから一歩も動けなくなった。文字通り自分の意思では手足を自由に動かせなくなり、食べることも、眠ることも、トイレに行くこともできなかった。一歩外に出ようとしただけで全身にストレス性の蕁麻疹が広がり、床の上にうずくまって叫びもがいた。まさに悪霊に憑りつかれたようだった。24時間悪化したアトピーによる痛み、不眠による果てしない苦痛、屈辱感、希死念慮に苦しみ続けた。

それでも家族はわたしのことを精神的な病気を発症したということを認めず、「お前は正常だ。はやく元の(家族のケア要員としての)あさせに戻ってほしい」というメッセージを発し続けた。今考えると、本当に異常だなぁ……。

27歳になった今、やっと実家を抜け出して一人暮らしをできるようになるまでに回復したが、社会に出ていくこともままならず、苦しみは続いている。

自分ですべての家事をして自分自身の世話をできること、時々こうしてパソコンの前に座れること、本を読めるようになるまで回復したこと、好きな歌を歌いに毎週出かけられるようになったことなど、5年前と比べると徐々に人間としての機能を取り戻してきたので、自分でも奇跡的だと思っている。でも、人生のなかで浴び続けてきた毒の影響は強く、希死念慮に悩まされている。『死にたい』という感情は人間が切実に持つ当然の感情だと言わんばかりに、自分の中心に在る。楽しさや安心感よりも緊張や悲しみ、苦しみを浴び続けたのだから自然だと思う。よっぽど親しい人にじゃないと言えないし、他人に感情をぶつけることは加害だと思っているので、自分を殺したくなる日も多かった。今はわたしのことを好きだと言ってすべて受け容れてくれている好きな人と女の子がいてくれて、かなり情緒は安定していて。

こうして文字にできるようになったことにも、そのおかげで。かなり感嘆している。ありのままの自分を受け容れてくれて、「そんなあさせちゃんが好き」って言ってくれる人たちに出会えて、回復してきたんだなぁ、だからこうしてやっと自分の本心を綴って、解毒というセルフセラピーの段階に入れたのかもしれない。


ギフテッドは先天的な性質なので、わたしの知的好奇心が極度に旺盛で成績が異様に良かったことも、兄の興味関心が勉強になくゲームやスポーツばかりしていたことも、わたしの知能が両親より遥かに高く畏怖の対象になり得てしまったことも、なにひとつ悪くない。

ずっと言いたかったこと、でも辛すぎて認められなかったこと。認めて口にすれば、自分が壊れてしまいそうだったこと。今なら言える。うちの家族は機能不全家族で、わたしの親は毒親だった。

誰にも言えなかったけど、わたしはずっと不幸だった。悲しいほどに、自分の生存のために、自分を殺し続けなければならなかった。生まれながらに、そういう環境だった。

だからわたしは社会が、生きることが今でも堪らなく怖い。「自分がそのままで、そこにいていいという肌感覚」を得られないまま成長してしまったから、どこにいてもその能力や性質のために浮くし、馴染めない自分を知り尽くしているからこそどこでも過剰適応してしまって心身が疲弊し、壊れる。

わたしは存在してはいけない存在、あるいはこの地上では息ができないエラ呼吸の魚なんだ、って思った。だから疲れ果てて、鬱やパニック障害になったのも当然の帰結だと思う。幼少期から10代全部、あまりにも子供が背負うには大きすぎるものを、背負い続けてきたのだから。

ここにいっぺんに書ききれないくらい、問題は根深く多岐にわたる。わたしは人間は怖いと思う。人間に怖がられることが怖い。加害性なんて一切ない人間なのに、自分は……。

人間は、「自分にわからないもの」や「理解しがたいもの」を脅威に感じ、恐れ、排斥しようとする生存本能を誰もが持っているから、仕方ないとは思うけど。簡単に人間たちが殺しあうこの世界で生きていこうとするのは、今でも結構つらい。

小学校の頃、わたしをほかの生徒たちとは明らかに別個な存在を自然に認め、受け容れ、大人が話すように接してくれた恩師がいる。美しくて、聡明で、理不尽に怒ることをしない、大好きな先生だった。その先生が、「あさせちゃんは正義感が強いから、これから社会に出て生きていく上では少し苦労するかもしれないね」と小学四年生のわたしに話したことを今でも印象深く覚えている。

当時は自分の倫理観を一般的な基準からそんなに外れていない、人間の自然な感覚と認識していたので、わたしはびっくりしてなんて答えて良いかわからなかった。

でも今、ギフテッドという概念を知ってからならわかる。このわたしが持っている自然に高すぎる倫理観や確固たる留められない正義感(多くの大人から周りの人たちから煙たがれてきた)、博愛主義(世界平和が本当に心からの夢、と語って苦笑いされていた高校時代)、もわたしという人間が生まれたときから持ち合わせた厄介な個性・特性だということを。


自分のことは、自分が一番わからないものだ。だからわたしはこうやっていろんな世界の概念を知って、自分を理解していく足がかりにしていこう。最近は特にその気持ちが顕著になっている。


知識は人を助ける。無知は人を傷つける。そう思ってずっと生きてきた。小さい頃から、世界の真実や本質的な部分が知りたいと思って思索・探求してきた。宗教についても学んだし、本をたくさん読んできた(これは単純に自分の快楽のため、趣味趣向にあたるけれど)。


他の人がどうであれ、わたしはきちんと物事の本質を見極められるような眼を養いたい。社会の軸から大いに外れた存在であっても、人生全部でそれをしたい。それがたとえ、生存競争や人間の本能に反するものであっても、生まれた特性のままで、わたしにとっての『自然』で、ただ道端に揺れる花のように、存在していたい。そして、人になにか良いものを届けられるような存在でいたい。


そんな自分の本心から湧き上がる『望み』に気づけるようになったことが、いまは堪らなく嬉しくて。改めていま関わってくれている人たちに感謝の気持ちを伝えたいな。


日をまたいで加筆しており、わりとパッションのままに綴ったので、書いていることがめちゃめちゃかもしれない。書き出したら思ったより筆が乗って、書く予定のないことまでべらべらと書いちゃった。でも、そうやって自分の気持ちを言葉にすることが、過去の自分を認めて受け容れることであり、回復への道へ繋がると思ってるから、よかったのかな。


最後まで読んでくださった方はありがとうございます。


自分のためのぐちゃぐちゃな文章だけど、こうやって地道に書き続けられたらいいな。文章を読むことや書くことは、わたしの根幹であり救いだから。


2021.3.24 閉館間際の図書館で、ルイボスピーチティー片手に。 あさせ


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