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山本圭の「嫉妬論」を語る

嫉妬論ー民主社会に渦巻く情念を解剖するー
著者:山本圭
光文社新書
初版:2024/2/29

私たちは嫉妬の存在を容易に認めようとしない。誰かの成功に妬んでいたとしても、「あいつは大したことない」といったように、その価値を否定することで自分を慰めることも多い。そのためこの感情は、たとえば怒りや悲しみといった感情に比べると、ストレートには表に現れにくい。それはたいていの場合、自らを偽装する。

第一章:嫉妬とは何かより



著者:山本圭

1981年生まれ。立命館大法学部准教授。専攻は現代政治理論・民主主義論。著書に「不審者のデモクラシー」「アンタゴミニズム」「現代民主主義」など。


著書について

プロローグ
第一章 嫉妬とは何か
第二章 嫉妬の思想史
第三章 誇示、あるいは自慢することついて
第四章 嫉妬・正義・コミュニズム
第五章 嫉妬と民主主義
エピローグ
この本は嫉妬について語られるわけだが第一章でそもそも嫉妬とはどういったものか、別の近しい感情との比較も含めて考察する。第二章で偉人や哲学者は嫉妬についてどういった考えを持っていたのか歴史的に考察する。デイヴィット・ヒュームやジャンジャック・ルソーといった一度は聞いたことがある人が登場。彼らに触れてみたいが手を出しにくいと感じていた人や一度彼らを読み大枠を復習したいと思っている人にはとてもありがたい箇所になる。もちろんルサンチマンにも触れている。第三章では嫉妬とは反対側の妬みを買う側である誇示、自慢を考察。第四章で嫉妬と正義、嫉妬とコミュニズムの関係を考え、第五章で民主主義との関係を考察する。ここでは民主主義に嫉妬感情は必要なものか語られる。


嫉妬について

[1]嫉妬の対象

自分に関係のない人ではなく、何かしらの観点で近しい人物を対象とする

[2]嫉妬が生じる時

自分と他人を比較したとき、比較可能な者同士のあいだに生じる

次に嫉妬を深掘るため似ている、あるいはよく間違えられる感情で嫉妬を比較する。

[3]嫉妬と義憤

義憤とは不当な幸運に苦痛を覚えること。努力しない人が莫大な遺産を相続したり、意地の悪い人物が善良な人を差し置いて成功したときに感じる「なんであいつが」という感情。誰もが対象になり得て、どこか道徳的に正当化できる。

嫉妬は自分との比較対象に限られ対象が仮に幸運に相応しいものであったとしても嫉妬者は我慢できない。

[4]嫉妬とジェラシー

ジェラシーは対象者が自分のものを奪おうとしていると考える。「喪失」に関わる感情で防御的である。「保持」という言葉をあてはめることもできる。例えば自分の恋人が異性と仲良くしているのを見て抱く妬みのようなものは嫉妬ではなくジェラシー。

嫉妬とは自分が欲しているものを対象者が持っていると考える。「欠如」に関わる感情で攻撃的である。「獲得」という言葉をあてはめることもできる。

両者を厳密に区別している人は少なく自分も日常生活を送る中で区別が必要と感じたことはおそらく一度もない。


感想

この本を手にしたきっかけは知人が愛について考え始めたことだった。自分は「他人を縛ることは愛なのか」という疑念を抱いていたとき知人は自らの経験の元「嫉妬は愛なのか」という観点から愛について考察し始めた。そこで自分も縛るということから離れ嫉妬についての理解を深めようとこの本を手にした。

結果的に知人の考える嫉妬はこの本ではジェラシーで自分も愛についての考えが深まることは今の所ないが、社会制度、民主主義の観点でいえば自分の思考や思想が一段階上昇した。その点でこの本は有意義であり著者が読者に対して狙っていたこと、期待していたことは満たされたと思う。

この本を読んでいく中でふと思ったことが2つ。
一つは「人は他人の顔色、特に怒りや幸福を気に掛けるのに他人の嫉妬を気に掛けないのはなぜか?」
二つ目は「人は他人の嫉妬を軽視しているのではないか?」ということである。
おそらく、嫉妬は行動原因になり得る感情ではないと考える。具体的に言えば怒りや憎しみは行動を起こす原因となる。つまり行動原因となり得る感情であるが嫉妬はそうではない。嫉妬したから行動に移すというより嫉妬することで行動原因になり得る感情に繋がるというのが正しいと思う。そういった観点からもし感情から行動までを分析したら嫉妬は第一感情あるいは中間的感情と言える。そのため人が他人の嫉妬を気にしないのは行動原因になり得る感情ではないからだと考えている。

他人の嫉妬を気にしないのを承認欲求からだと考えていたときに知人グループに送った自分のメッセージを以下に張り付ける。日本語に違和感がある箇所も知人に送ったものだからと見逃して欲しい。それは次のようなものである。

妬み、嫉みと言われるような現代的に言う嫉妬を、そもそも何か?どういった感情ということを深く考えずに今までのニュアンスやイメージ、今ある価値観や捉え方で次の話を聞いて欲しいというか読んで欲しい。

SNSの発達で自分の幸福を誇示する人が増えたように感じる、あるいは誇示する場所を人々は見つけたように感じる。かつては飲み会で女の子や部下、後輩に自慢や自らの幸福、至福を誇示するだけだったが今ではSNSで不特定多数に誇示することができる。彼らは承認されること、あるいは嫉妬されることで自らが自らを承認または自分の価値を定めている。(定めることができているとも言える)。

ここから誇示する人から嫉妬者に話を移したい。

もし嫉妬者に殺意のようなものが現れたら果たして誇示者は生きていられるのか?を考えた。
今、嫉妬者が殺意を抱いても実行するのはおそらく稀である。だが彼らが集まり群衆となったら話は変わる、と個人的に思う。彼らは論理的思考能力、倫理観を欠如する群衆となると仮定する。これをル・ボンの言葉を借りて「黴菌化」と呼ぶことにしたのだが黴菌化した嫉妬を抱く群衆は誇示者を殺すのではないか?あるいは殺しても合法化する社会を作るのではないか?と思った。

ここからが本題。

人は他人の目の色を伺い配慮し、あくまでポリス的な生き方をしているはずなのになぜ他人の嫉妬に目を配るような生き方を全くしないのはなぜなのか?
友達や同僚が嫉妬するかもしれないからと自分の行動を配慮した人を見たことがない。しいて言えは恋愛関係にある男女くらいだと思う。おそらく他人の嫉妬について考えたり配慮するのができないくらい承認欲求がとてつもない時代なのではと思う。ポリス的な生き物なはずなのに。

だからといって個人的に嫉妬感情を気にしろと言うつもりはない。むしろそういった人が嫉妬を軽視し自らの命を落とす瞬間に立ち会いたいとさえ思っている。

嫉妬されないと生きられないが嫉妬されることで殺されるという深みのある人間社会にまた少し嫌悪しつつも、おもしろいと感じる。まさしく「ぴえん」だと思う。

この話、誇示することが嫉妬されることに繋がり幸福を得るということをだいぶ前提条件にしてるから、この部分が崩れればすべてが白紙になる。


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