字が汚い、これは問題なのか
字を綺麗に書きたいのだけれど、自分でも不思議に思うほどに汚い。
丁寧に書こう、と思っても汚くなる。
過去を振り返ると、小中では字が汚いとよく指摘された。
ただ、字がきれいな人を羨ましく思ったものの、そこにどれほどの価値があるのか良く分からなかった。
心は字に表れると言うけれど、そう唱えている字が達者な国語教師は特別綺麗な心の持ち主に思えなかった。
むしろ形に拘りがちな人が多い印象で、個人的にはもっと大らかなタイプの人が好きだった。
答案用紙の字が綺麗でも間違えている子もいれば、ミミズのような字でも点数の良い子もいて、字の綺麗さと勉強の出来不出来との関係性も見えてこなかった。
少し性格悪く表現すると、綺麗な字で間違えるって本末転倒ではないか。
いくらきれいな言葉で卒なく話をされても、そこに中身がなかったり共感がなければ興味を持てない。
それよりも、中身があったほうが良い。
試験で言えば特に問題数が多い場合ほど、字を丁寧に書くことより正解を導くために時間を使った方が良いし、覚束ない言葉でも中身があって気持ちに伝わる話のほうが好き。
もっと平たく言えば、字なんかで人が測れてたまるかい、という気持ちがあった。
以前本で読んだことだが、米国の大学に留学した日本人の方が教授から「レポートでこれほど綺麗に字を書く必要は無い」とやんわり言われたらしい。
周囲の学生は字が汚かったけれど、それぞれに自分なりの考えを書いており、そのような独自性の方が評価されるとあった。
また、周囲より早めにパソコンを触っていたこともあり、誰が打っても完璧な字を出せるパソコンのことを考えると、字に拘る意味を余計感じなくなっていた。
実際、今ではメールでのやり取りがほぼすべてを占めるようになり、更には虚礼廃止の流れで年賀状なども激減しており、字が汚くて困ることはあまりない。
「字をきれいに書くこと」という教育もあって、何かの際に字を書くときには「我ながら字が汚いな」と少しの恥ずかしさはあるものの、そのような教育がなければ抱かないだけの感情であり、特に困ることはない。
実際に困ることといえば、あまりに汚くなったときには書き直すだけであるし、一応読める程度の字ではあるのでそこまで汚くなることはまずない。
そんな感じで微妙には困るが、あえて克服する労力には見合わない。
個人的には綺麗に書きたい気持ちはある。
しかし、どうも綺麗にならない。
やり方自体も良くない気はするが、それ以上に素質的なものもある気がする。
自分の場合、頭のスピードに字を書くスピードが追いつかなくてまどろっこしい感覚がある。
自分のように大人でも汚い字の人、子供でも達筆な子がいたりして、明らかに向き不向きがあると思う。
絵が上手い下手みたいなものに近いと思う。
でも、それはそれでいい。
皆が皆、絵がうまくなくても良い。
もちろん、下手か上手かなら上手が良いけど。
今の学校でも、字について煩く言われるんだろうか。
もしそうなら、そんな教育はいらないと思う。
日本人は心配症だから細かいところが気になってしまうけれど、いっそ気にするのを辞める努力も大事ではないか。
物事にはそれぞれの重要度がある。
重要度が低いものへの努力のウエイトは減らして良い。
今の時代、字が汚くても困らないし、字が綺麗でも特に得しない。
字の綺麗さは、昔ほど活かせる技能ではなくなってきている。
せめて読める程度の字が書ければ良いと思う。
子供には、その時間をもっと他のことに使える。