春だ個展だ、作品解説だ
こんにちは、画家のhitchです。
3月中は横浜で個展を開催していますが、このご時世で会場に来られない方も多いので作品解説をやる事にしました。個展情報は最後に書いたので、アレでしたらズイーッとスクロールしてください(本文がすげー長くなった)
まず僕の作品の多くは1つの大きなテーマをもとにしていて、枝分かれした3つのシリーズから成っています。
その大きなテーマは「世界はバラバラなまま繋がっている」という感覚です。
「世界はバラバラなまま繋がっている」
僕たちは漠然と、「皆んなで同じ一つの世界を生きている」という認識があります。地球は何処でも地続きで、世界中の全ての生き物が1つの世界に生きている、と思える。
一方で生き物どうしは身体的にも精神的にもお互いに越えられない境界がある。たくさん話し合ったり空気を読んだりと推し量ることは出来ても、他人の目で世界が見られず他者の心情を体験できない以上、どうしても互いを完全には共有出来ない。
その意味で、個を持つ生き物は皆それぞれ別々の世界を生きていると言える。私たちは皆個別の閉じた世界の中を生きている。
そんな事を考える時、いつも頭に「暗い夜道」が浮かぶ。
辺りは真っ暗で寄るべなく、色も輪郭も見えなくなってしまった。
そこで人々はライトを灯し、暗闇の中を照らしては、世界を理解・安心しようとしている。
世界になんとか意味を持たせたいけど、それでもまだ薄暗いから、見え方が人に拠ってバラバラだ。ある人にはリンゴに見えるモノが他の誰かにはトマトに見えて、実はそれがザクロだったと知る事はない。
昔の誰かのすれ違いコントみたく、互いの主張はすれ違い、歪んだ形で受容される。情報は自分が見たい形でしか吸収されない。この知覚の識閾・個々の境界線・パズルの隙間が、この世で起こる全てのロマンスとトラブルの原因で、その越えられない境界線こそがこの世の限界って感じで面白い。
「そんなバラバラの世界に希望をかけて、なんとか僕らは繋がってるって事にしよう」
そのせいで生まれたヒズミやズレを取り上げて、バラバラな世界を立ち現せる。それが作品作りのテーマだと思う。
[After We Have Broken in Pieces =バラバラになった後で]
個展タイトルは、コロナ禍で痛感した僕たちの分断は、そもそも太古から生物は身体・精神的に分断されているというトートロジーから名付けました。
また自分の絵のタッチが、ピースの欠けたパズルのようにバラバラである事を重ね合わせ、バラバラになった後に何が見えるか・感じられるか、を問うような展示にしたいと思っています。
前置きが長くなりました。それでは最初に触れたように、そこから枝分かれした3つのシリーズを展示作品を交えながらご紹介します。
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シリーズ①:生命は流れる川に出来た一時の淀みのようなモノ[動的平衡]
これまでの話を翻すようですが、身体的な境界線はある視点から見ると存在しなくなる。代謝だ。生き物は代謝を通じて常に周囲から取り入れて吸収し、壊して排出する。「人間」という存在を「自然や環境」と分けて考えがちだけど、自分と環境は繋がっている。代謝というフィルターを通すとそこに身体と環境の継目は無く、まるで川の窪みにできた一時の淀みのようなもので、流れてきた落ち葉をクルクルと回すこともあれば下流へと押し流していく。
"Dynamic Equilibrium" F30, 2020
↓画像はスクロールすると別角度・参照元が出てきます
「いのちは闇の中のまたたく光だ!」と喝破したのはナウシカで、
宮沢賢治は「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」と触れている。身体の境界を水面に溶かし、自分という存在の境界線を無くしてみせること。それがこの絵で試してみたかったことです。
"No Boundaries" 30角, 2021
「水面」というのも世界がバラバラであることの対照的モチーフとして面白い。水面に反射した風景は、水面という単一な素材に映っているという点で全てが繋がっている=バラバラではない。
"Gwakamole" F15, 2020
食べたあとのアボカドを何の気なしに水耕栽培していたら、出た芽がどうもおかしい。緑みがなく、乳白色のソレはどうやらアルビノで、葉緑体がないためにそのまま死ぬ運命だということだった。しばらく哀れんでいたが、よくよく考えてみれば彼の栄養は既に僕が食べて(美味しいワカモレだった)吸収しており、動的平衡のバトンは僕が受け継いだという事になる。とはいえ少し可哀想だったので絵にした。
シリーズ②:人/生き物によって世界の見方が違う面白さ[Umwelt/ 環世界]
Umweltとは生物学用語で環世界と訳されますが、生物の種それぞれがもつ知覚世界のことを指す言葉です。ヒトは知覚情報の8割を視覚に頼ると言いますが、目が見えない生物はほかの器官で世界を認識しているわけです。
先の話で触れた「暗い夜道」を再び登場させるなら、人が怖がる暗い場所もコウモリにとっては全てが見通せる狩りの場だ。嗅覚や聴覚に加えてエコロケーションを使えば、彼らは自由自在に闇夜を舞う。
"What is it like to be a bat" 30角, 2020
論文『What Is It Like to Be a Bat』で触れられる、「(コウモリにとって)コウモリであるとはどのようなことか」とは、「彼らの身体と脳を持った生物が、どのように世界を感じているのか」であり、それが解明されることは決してない。(「コウモリになって空を飛ぶの最高!」は人間的思考なので)
"Butterfly Dream" 30角, 2020
生き物によって感じる知覚はまったく違うため、ヒトよりも鮮やかな視界を持つ生物も多い。
モンシロチョウは紫外線が視えるので、私たちには真っ白に見える翅(ハネ)も、彼らには鮮やかな紋様となってが浮かび上がる。
一方我々にしてみれば信頼を置くはずの視覚でさえ、認知エラーは起きやすく、環境と切り離すと色の認識さえままならない。
シリーズ③:(同じ人間同士でも)土地が変わると文化が変容して受容される面白さ[民話/宗教/神話などの伝搬]
このシリーズでは、世界がバラバラであることの簡単な証左として、物語のミスリードをテーマにしています。伝言ゲームの伝達ミスは人類史上で常に起きている。もし世界が唯一のもので全人類が同じ感覚を共有できるなら、宗教に宗派は無いし、昔話は「むかしむかし」と曖昧でなくソース/情報源が明確なはずです。
オリジナルの文化は、土地が移り時間を経ると、意図的であれ無意識的であれ、その時その場所に合う形に変容・受容されてしまう。
興味深いのは、それらオリジナルのコピーを受け取った者が、コピーをオリジナルだと思ってしまうことだ。それはまるで伝言ゲームで前の人に言われた言葉が多少可笑しくても、自分がそう聞いた以上それこそがオリジナルだと信じてしまうように。宗派も昔話もそうして現代まで枝分かれしてきた。
こうして物語・文化を生み出し続けることがとても人間的に感じられて面白い。(そうでなければ2000年LAの捜査官ジャックバウアーを2020年に日本で唐沢寿明が演じる必要がない)
"Swan Maiden" M12, 2021
日本に残る羽衣伝説の類話がはるか遠くのギリシャにも或り、それら何百何千ものコピーの起源が中央アジアのある民族の物語であることを知る人は少ない。伝言ゲームよろしく、湖・美女・白鳥・結婚といったキーワードをどうにか伝えて物語はコピーを繰り返す。
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以上がコロナ禍で自覚した自分なりのテーマ、だと思います。
自分にとってはあまりに普通で、陳腐にすら思えますが、改めてこれに向き合おうと思えたのはコロナの自粛期間があったからでしょう。
とはいえ自分でも何故こういった事が自分の創作の源泉になるのか、実はよくわかりません。人と人が皆んな違うこと、それは豊かで美しく、また悲しく滑稽で…なんかやりきれなくなる事があるのは確かです。
今はまだ、その勉強と消化作業をしているように思います。
創作に軸となるテーマを持たせたのは今回が初めてで、これから育てていきたい思っています。たくさん本や話で学んで自分の興味を作品に込めるのは面白い反面とても時間がかかることですね。
今回の作品群は、数冊の本を読んではその感想文を書くように絵を描いていたので、なんというかまだ固いのです。もっと知識や経験を渾然と溶け合わせ、トロリと表現に染み込ませないとと(展示が始まる前ですが)痛感しています。
今年はこの展示以外にも幾つか作品発表の機会を進めています。あともう少しで何か掴めそうな気がするし、早く作品を作らないとと焦る気持ちもあります。良い年にします🔥
それでは皆さま、個展会場、もしくは広大なネットでお会いしましょう!
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