最近短歌してるのですが、ぜんぶたぶん、それのせいです。
今日の朝のバスで、永訣の朝をなんとなしに調べていました。
今にしてもう一度心のなかで読むと、あの詩にはじめて目を触れたとき、私はなんにも感じることがなかったなを思い出したりします。その横で、あの詩に柔らかな絵をつけるほどに感動していた子がいるのも覚えています。
”ひとのために必死になれることがほんとうのさいはい“
言葉で紡ぐ中で、一本の糸のように意識が明確になっていく詩人の、整理する白いふわりとした姿に(私はなんにもいえない)と閉口していました。だから中学生の引っ込み思案のときの私は言葉がなんにもでてこなかったのかも。いまでは少し思う。難しかったんだな、あの頃の私は、今もだけれどかなり頭が悪かったので…。
…さいわい。天使の采配のように賢治さんは口にしました。
本当の幸せをどう定義するか、不安定になるような事というのは私にとってずっと怖いことです。
なぜだろう、宮沢賢治氏の作品からあまりネガティブを受け取った記憶がないです。
私は自分の世界が揺れるのは、…喉元過ぎれば平気だけれどそりゃ、ほんとうならきっと、そんなに”好き好む“とは言えません。
私の好きな人は、ほんとうにいつもそういうのばかり好きだったなあと思います。今も職場でも、そういう人を好きになります。
迷うということは、考えることが許されているということだと思う。それを賢治さんはよく知っているように感じますし、あの作品群を好む人々はなんとなく(たいせつなことはめにはみえないよ)を口にすることなく伝えてくる気はする、そういう目は好きだと思います。
兄が妹の姿を見るとき、なにかしらにつけ、「それは少なくとも正しい」と確かめることがあったかもしれません。賢治さんはそれが妹のトシさんに対して強かったように。これは勝手な感想だけれど。
それが掻き消えることは確かに寂しかったはず。
たまに居る、「依存先を分散しておかないと」と言って推しを何人も抱えている方の発言を見かけますが、その度に(ああ、宮沢賢治の永訣の朝が怖い人だ)となんとなく思えるかもしれません。きっと賢治さんはあの日、その中でも最大の推しを喪失したのでしょう。いっそそのひとつぶしか推しを持っていなかったのかもしれません。
…その寂しさで潰されるような気持ちは、もしかしたら私は分かるかもしれません。
私はとある兄の妹なので、”妹が居ることの面倒“や”辛さ“みたいなものを反射して何度も受け取ったけれど、逆に私が居ることをなんとなく安堵して眺める目も何とか覚えているから、そういうものって共存するのだろう、くらいのことは思い出せる。なんだろう、茫漠としているなぁ…。まぁだって私は兄じゃないものな。
相手がいることがその人の軸になることがある。そういうのは仕事していてもよく思う。誰かの必要の為に我々は社会で動き回る虫になり、あるいは犬になり、あるいは猫になり、
あるいは、そうしてやっと、ひとはそれを人と呼ぶのだろう。私も、思う。(仕事中は人間になれている気がする)と。それから思う。(人扱いされていない)と思うことが、人らしい、といつからか思っていることを。
…固い話にしたくないです…。やめます。
妹の姿の見え方や想い出を、時間の流れが全て塗り替えていくことが耐え難かったとき、単なる方言の言葉すら少し歪んで自分の名前に感じるほど記憶に強く焼き付いてしまって剥がれずそれを封印する。
(それはそもそもいいことだろう)
(妹の姿を忘れられないのは)
(死の間際にも、変わらない姿なのか、
いつもの姿とはどう違うか、あるいは、
これはいつもとは少し違ったろうか、
いや、今がいちばん妹なのだから)
(けれど…死で塗られるには、…君は眩しい存在だった筈なのに)と、思うような…
…兄ってそうなんだろうか。きいたことないな…。
上記の思考の流れは私が、よくやっている脳内の動きだろうとは思います。
肯定と否定が繰り返し起きて、
どうしても決められない。自分の時間がどんどん経っていくうちに、華やいだ人の会話に、話だす事ができなくなって、その時の寂しさたるや。
残念ながら上の話は想像力だけの物語です。
私はおじいちゃんが亡くなった時は多少、虚無になりましたが、仲の良い兄弟と死に別れてはまだいない…。兄は私に自分のこと言おうとは全くしないので。さびしいなぁとくちにしてみる。
写真にすら写ってくれない。
私の兄より私の兄らしかった人のことについて。
…というか…私を少年にしてくれた人のこと。
それでいて、私はその人の夏を作ることを、
忙しさを盾に殆んど放棄するのが怖くて、
逃げ出した。
しかも嫌いとまで言ってのけた。
もう二度と会わないだろう。
新しい景色の、清々しい(それこそが正しい自然)としてあるものを見た時に、
私の忘れ難い人を思い出して辛くなる。
「私はそれを忘れていく生き物だ」
と思うからで、
悲しみなど忘れるべきだ(それが正しい)
とするべきで、
べきで、
べきだ。
と思う度にぜんぶ捨ててしまいたくなった。
彼女は私のなんなんだ。
私は彼女のなんだったのだろう。
彼女は喜びになろうとしてくれた。
喜びだった。私は喜ぶようにしていた。
彼女のためだった。
けれど、喜びだったと言い切るにはあまりにも辛いことが多すぎた。どうして正しく生きられなかったのだろう。私は悪者になりたくなかった。彼女が悪者になった。悪者になった彼女は私を愛したらしかった。私はそれを否定せねばならなかった。
答えなんてどこにもない。
二度と会うことはないのだ。遺しておきたい言葉は全て土星に置き変わった。愛を突き返してくれてありがとう。…それだって、私の罪悪感が減るだけだった…。
わし座のアルタイルとこと座のベガは、13光年先の遠距離恋愛なんだって。
年に一度、会うんじゃないのかよ、ばか。とは、もう言えない。誰の声なんだろう、と、現実に帰る私がつぶやく。
現実の友人や家族から、
お前最近、ずっと他のこと考えてるよなと怒られてる。
やめろって。そうだね。全然しらない人に(似てるなぁ)と思ってしまう自分があまりにもくだらない。それでいて、ああ、何十年付き合って来た私って人間はたぶんずっとこうだったな、と思う。
どう見たって、寂しいことが確定してる。