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落ちこぼれの私から、落ちこぼれのあなたへ 人生の迷路にて色川武大の「うらおもて人生録」を捧げて
「あなたは落伍者ですか?」と聞かれると
私の答えは「はい」だと思う。
「思う」である。それを名乗ることさえ憚られてしまうほどに自信も度胸も持ち合わせていない。落ちこぼれを自称することさえも多分に感じる。
この世を経験して二十数年。類まれな才能、人格者の人々を横目に昨日を生き延びることができたこと、そして生き延びてしまったことの是非を悶々としながら惰眠を貪ってきた。
多くの人に助けられて生きてきた。
この世には育英財団というものがある。素晴らしい才能を持っている人々の人類への貢献を支援する。私はその反対のようなものだろう。いや、同じ文章にすることさえ失礼な話なのだが。向精神薬を処方され多くの方の助けで存在している。果たして私は許されているのか。いや、そんなことはどうでも良い。
恋人どころか家族とも疎遠、打ち込むことのできる趣味と言えるものもなく、仕事では毎日叱られ退職。叱られている内容がぐうの音も出ないほど真っ当で、組織において自分の存在に耐えられなくなってしまった。地域の若者サポートセンターに勇気を出していくも、扉をあけ、中から聞こえてきた歓声に怯えてそのまま後にした。
そんなとき、色川武大氏の「うらおもて人生録」に出会った。
目にした紹介文に心を揺さぶられたのだ。
優等生がひた走る本線のコースばかりが人生じゃない。ひとつ、どこか、生きるうえで不便な、生きにくい部分を守り育てていくことも、大切なんだ。勝てばいい、これでは下郎の生き方だ……。著者の別名は雀聖・阿佐田哲也。いくたびか人生の裏街道に踏み迷い、勝負の修羅場もくぐり抜けてきた。愚かしくて不格好な人間が生きていくうえでの魂の技術とセオリーを静かに語った名著。
あなたに読んでほしい。巷に溢れる自己啓発、人生論は綺麗事、薄いと思うあなた、社会に馴染めないあなた、生きることに苦しさを感じるあなた。もがいているあなたに。
自身をも壮絶な人生を歩み、劣等生と呼ぶ彼の語りかける言葉を感じてほしい。
「新聞の隅っこに小さく出た記事があってね。品川の食肉処理場から馬が一頭、逃げ出すんだ。深夜の海岸沿いの道路を、西の方にまっすぐ疾駆した。むろん追手も出たろうし、巷の人も取り押さえようとしたろうが、気丈な馬で、振り切って逃げた。 だが、どこまで走っても、彼の世界はないんだな。とうとう細い道に迷いこんで、とりかこまれて、彼は前肢をあげて人間たちにむかってきたらしいが、捕まってしまう。 今でも、それに似た小さな記事を見ると、俺は息がつまってしまうんだがねえ」 著者は、劣等生や非行者にむかって、うかうかするとこの馬のように捕まってしまうぞ、是が非でも自分の世界をみつけよ、とよびかけているのである。
私も逃げている、逃げ続けてきた人生だ。差し伸べられた手を振り切り、
行先も目的もなく。だがどこまで逃げても待ち受ける世界はないのだ。
本書では様々な生き方指南が語られる。有名なものに「9勝6敗を狙え」がある。これは全てうまくいくなどあり得ないのだから上手に負けることも大事だよというものだ。
なにもかもうまくいくわけじゃないんだから、なにもかもうまくいかせようとするのは、技術的にはまちがった考え方だ。 少年よ、大志を抱け、という言葉があるね。あれは気力の問題。もちろん気力は大切だよ。 そのうえで、技術としては、どこで勝ち、どこで負けるか、だ。
その中で私が一番心打たれたものはやはり、劣等生は劣等生なりの道を見つけようというものだ。
劣等生が劣等生うるのは社会で決められた枠の中で優劣がつくからだろう。ならば自分の枠組みで生きていこうと訴える。
彼は博打師らしく、競馬を例に解く。
競馬では馬ごみという状況がある。後続に馬が一団となり抜け出すことは難しい状況だ。
そして劣等生は往々にしてその馬ごみに自身を置きがちだ。だがそれは自分に向いていない枠組みだ。そこで勝負をしているあなたは、そのままだと脱落してしまうぞと警笛をならす。
ならばどうすれば良いのか、色川はこう諭す。
欠落をたくさん抱いて馬ごみに入ったんじゃ、もうおしまいだよ。 だから劣等生は本線を捨てちまう。下積みで、この程度に生きられればいいや、なんて思わないこと。そのかわり、上積みも狙わない。 本線とはちがうコースがみつかるといいんだがね。たとえ本線に所属していても、その中でユニークなコースを見つけること。平均点でしのぎをけずることはしない方がいい。
自分のコースを見つけよ。平均点の生き方を捨てよ、自分の持ち得る起爆力のある道を生きよ。と
生き方を指南する本でここまであっさり、すっぱりと自身の生きている道を捨てよと説く人がいただろうか。そしてそれはなんと心地良いのだろうか。
本書ではその道の見つけ方、振る舞い方などにも触れられている。
清水幾太郎は「本はどう読むべきか」にて実用書、娯楽書、教養書の違いを
実用書は「生活が強制する本」娯楽書は「生活から連れ出す本」、教養書は「生活を高める本」と述べている。
本書はタイトルに人生録を冠しながらその枠組みを超えている。
著者の波瀾万丈な人生から導き出された生き方のテクニックは実用的であり、戦前、そして戦後の生活を振り返り優しく語りかける様は現在社会の息苦しさから解き放し、本書を通じて語られる人生録は生活、人生そのものを変えてくれる。ぜひ、一度手に取って頂きたい本である。
次回は彼の狂人日記についても触れられることができればと思う。
それではみなさん、明日も元気で。
私も頑張ります。