スタンド・バイ・ミーを観てふと思い出した事。幼少期に受けたイジメやリンチが自分を作った。
TVで久々にスタンド・バイ・ミー
を観て幼少期を思い出していた。
物凄く大好きな映画でサントラは今
でもたまに車等で聴いている。
映画鑑賞とサントラ収集も大きな趣味
の1つなので別の時に書きたいと思う。
思春期を向かえる前にどんな人生
を送ったかってのがそいつの人格
形成に大きく関わって来ると思う。
学校では俺達は平等だと習ったが
生まれた家庭で人の人生は大きく
左右されるのに平等な訳が無い。
小学校に入り連絡網を貰った時に俺
だけはアパートの大家の電話番号が
書かれていたのを思い出した。
昭和45年生まれのこの時期だと電話
位はあるのは普通だったが普通じゃ
無い事にその時俺は気付かされた。
ハングリーな境遇をバネにして大成
した人も多いが人生のレールを踏み
外し人生を棒に振った奴等も沢山いる。
しかし俺にはそれほど悲壮感を感じて
はいなかったし毎日が楽しかった。
それはきっとオフクロのおかげだ。
どんな時でも俺が楽しいと思える事を
探して与えてくれる、そんな人だった。
自分は横浜で生まれ物心ついた頃には
北海道でオフクロと暮らしていた。
ある日夜逃げ同然で横浜に引っ越した。はっきりした記憶はその頃からだ。
オフクロは美容室で働く事になった。
俺達の住居は美容室の休憩室であった。
六畳一間風呂無しのその部屋は美容室
で働いてる人達がお昼御飯を食べる為
の部屋であった。
木造の建物は二階建てではあったが
鍵もタンスの鍵の様な鍵であった。
キン肉ハウス二階建て版って感じだ。
線路の目の前で電車の音で目覚めた。
俺は初っ端に洗礼を受ける事になった。
近所の子供達が他所者の俺を標的にし
イジメを始めたのだった。
きっかけは覚えていないが気がつくと
怖くて外に出れない程になっていた。
俺が一人で家にいると投石が始まる。
ガラスは割れ破片が部屋中に飛び散る。
俺は布団に潜りただ泣くだけだった。
出かけてもオフクロと家に帰ると。
バカ!死ね!等の汚ない罵詈雑言が
壁一面に描かれていた。
オフクロは時間をかけてその落書きを
綺麗に掃除していた。何度も何度も。
やがて保育園に通う頃からイジメも
無くなったがトラウマは残った。
実は幼稚園に行くか保育園に行くか?
ここも人生の岐路だったりする。
当時は共働きも少なく一部は、片親、
貧困な家庭も決して少なくなかった。
それによってバイタリティある子供達
が集まっていた印象がある。
小学校入学で何となくそれを感じた。
そろそろ本題に入りたい。(遅い)
一年生の頃から問題児だった話は
長くなるから割愛します。(また今度)
一年生の頃に何故か母の友人の新潟へ
の里帰りに同行する事になった。
今考えると夏休み何処にも行けない俺
へのお情けだったんだと思う。
誰も知り合いのいないドアウェイな
旅行なんて期待どころか不安しかない。
そしてその不安は的中するのである。
横浜の都会から来た知らないガキ。
大人達は仲良く遊べるだろうと思う
かもしれないが大きな間違いである。
その家には子供が5人位集まっていた。
そして初日の夜に集団リンチにあう。
理由なんて何も覚えちゃいない。
少年院の歓迎リンチと同じだろう。
あしたのジョーのあのシーン的な奴だ。
しかし子供は単純である。
次の日には皆で遊びに行く事になった。
田舎育ちの子供には当たり前の自然が
都会育ちの俺には新鮮だった。
昆虫や蛙やザリガニを取りまくった。
初めてハチノコを食べさせて貰った。
リアルぼくのなつやすみだった。
そして横浜に帰る日の朝がやって来た。
皆がお土産を持ってお別れに来てた。
大量の蛙達だった。(数十匹)
俺の為に捕まえて来てくれたのだ。
最後はハートフルな展開となった。
皆と別れ横浜に向かう俺と蛙達。
しかし、、、
真夏の気温で蛙達はだんだんと、、、
異臭を放つ事になったのである、、、
もうそいつ等の顔も名前も覚えてない
だけど今でも時々思い出す。
幼少期に受けたイジメや暴力や差別。
反社会的な人達の借金取り立て。
そういう物へのトラウマが出来た事で
強さに憧れたのかも知れない。
それがプロレス好きや格闘技を始める
事に繋がったんだと自分は思ってる。
そしてあの頃自分を守ってくれる正義
のヒーローはいなかった。
だから正義よりも悪(ヒール)が好き
になったんだろうなぁ。
おしまい