アメリカンサイコ〜記号化による過剰への傾倒〜

2021/04/03

今回は、2001年に製作された『アメリカンサイコ』について考察していく。

『アメリカンサイコ』は、ウォール街でエリートとして働く主人公パトリック・ベイトマンが、いい女を抱き、高級レストランで食事をすることで、自身の優位性を誇示しながらも、裏では、殺人を行うことで、自身の猟奇的欲求を満たしていく、サイコ映画である。

はじめに、主人公のパトリック・ベイトマンは、

・美女と周囲が認識している女を抱く

・有名レストランを予約

・名刺バトル

・音楽の知識を披露

という行為によって、他者から見た自身の優位性を誇示したい人物であることが分かる。

その一方で、

・ホームレスの殺人

・同僚の殺人

・美女の殺人

という行為によって、自身の猟奇的欲求を発散し、自身の固有性を確認したい人物であることも分かる。

このように、ベイトマンは、自身の優位性を誇示したい欲求と、自身の固有性を認めてもらいたい欲求が内在した人物として描かれている。

映画の序盤では、美女を隣に置き、高級レストランで仲間と社会問題を語ることによって、自身の優位性を誇示することで満足していた。

しかし、名刺バトルによって自身の優位性が揺らがされたと気づいた後、自身の固有性を確かめる為、殺人を繰り返し、犯行がバレることを望むような行動をとるようになる。

この映画では、ベイトマンが自身の優位性を誇示する様子と、自身の固有性を確かめる様子の両方が描かれるが、どちらも承認欲求が原動力となっているので、最終的に他者と比較してしまい、ベイトマンやそれを見ている観客が大きな虚無感を感じるストーリーとなっている。この承認欲求が満たされない虚無感が、本作ストーリーのテーマとなっている。

ここまで書いた内容は、一般的な『アメリカンサイコ』考察の範囲にとどめた内容になる。

以降は、ベイルマンの行為が承認欲求を満たしているという流れを表現するために用いられた手法にフォーカスして、更に考察を深めていく。

ベイトマンは、自身の承認欲求を満たすため、”あからさまな行為”を選択し、多くの人に認めてもらおうとしている。

この”あからさまな行為”とは、美女を隣に置いたり、高級レストランに行ったり、殺人を繰り返したり、といった誰が見ても理解できる、記号化された行為のことを表している。

ベイトマンは、行動の動機が承認欲求を満たすことに向けられており、わかりやすく記号化された行為を選択することで、多くの人々に認めてもらおうとしている。

しかし、行為の記号化は、その行為に内在する動機や必然性を剥ぎ取ってしまうので、わかりやすい反面、行為者の必死さが消えていき、結果的に行為を選択する軽さが表現される。この軽さが、観客には、承認欲求を満たすためだけに行われた”あからさまな行為”として映るのである。

更に、本作では、記号化された行為に動機や必然性が内在せず、表層のわかりやすさのみに傾倒していき、より過剰になっていく様が描かれている。この過剰さは、徐々に生活から乖離し、異常性を帯びるようになる。これこそが、この映画の表現手法が提示したもう一つのテーマだろう。

現代人は、情報化社会を背景として、多くの人が自分自身の日常を発信しており、他者との比較を余儀なくされている。このように、無限に承認欲求が満たされない時代では、人々が記号化された行為を生み出し、それを選択することで多くの人に認めてもらおうとする。一方、記号化された行為は、より過剰になり、本来の生活と乖離した異常性を帯びたものへと変化していく。こうして、人々は、異常な日常の中で、自身の行為の動機や必然性を考えることもなく生きなければならない。

この映画は、そんな現代人の過剰な承認欲求と生活と乖離した異常性を、ベイルマンという人物を通して揶揄した作品と言えないだろうか。

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