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東京生活と妹#9

私は大学の医学部看護学科に在籍していました。

大学4年生の時に、助産師コースの選考がありました。看護師の他にもう一つ資格を取っておきたい、助産師という仕事も面白そうと思って選考を受けました。

無事に選考に通って、助産の勉強を始めて、助産師という仕事を知りました。
女性の妊娠・出産・育児を含めた人生をサポートする仕事ということに惹かれたのです。

助産師の実習では実際のお産の現場に入られせていただいて、現役助産師さんと共に赤ちゃんの出産を介助しました。
命の誕生はとても尊く、その命を守る大切な仕事であることを学びました。
命と向き合う尊くもあり、過酷な仕事ではありますが、私は助産師の仕事を選びました。

そして東京で働きたいと思い、東京で就職活動をして、1回目の面接では「北海道出身の人はすぐ辞めるのよね」と、地域差別発言があり落選。
「なんやねん、道民だって東京で働けるわ」と反骨心を剥き出して、同じ病院の2回目の面接も受けました。
その時には前の面接官ではなかったので、そんな発言もされずに、私は無事に内定を取ることができました。

国家試験は看護師と助産師の二つを同時に受験、落ちたら内定取り消しになってしまうというので、緊張感のある試験になりましたが、無事にどちらも合格して、晴れて社会人になれました。

夢であった、資格を取って働くことを叶える切符を手にしたのです。無事に合格を報告して父も母も喜んでくれました。


ちょうど妹も東京の大学に進学が決まったところだったので、一緒に住むことになりました。

姉妹二人で東京暮らしの始まりです。

新しい生活の中、試行錯誤しながら家事分担をしました。
主に私が仕事している時は妹が料理を担当することになり、初めて料理する妹は、大さじ1をカップ1だと勘違いして大量の醤油を入れようとしていたこともありました。その直前で止めたので、塩分過多の料理は未然に防ぐことができました。

1週間の買い出しは私が休みの日に、近くのスーパーまで一緒に行って買うのもルーティーンになっていました。

二人ともケンタッキーのクリスピーが大好きなので休みの日には二人でケンタッキーパーティーを開催したりと、全体的には仲良く過ごすことができました。

その中でももちろん喧嘩もありました。それは日々の生活の中で起こるいざこざと、過去に感じていたことの毒の吐き出し合いです。

私たち姉妹2人が小学生の頃に父の失業があり、家庭環境が変わって苦しかった過去の話です。

私は私の大学入学とともに家を出ました。

妹の心の奥にあったのは「お姉ちゃんだけが先に逃げだ」という感情です。私は東京でこの感情とと向き合うことになりました。

家が苦しい時に私は妹よりも早く家を出ていたので、それが妹にとっては私は取り残されたように感じていたようです。

その頃は自分のことで精一杯だったので、家に残される妹のことを考える余裕はありませんでした。

私はその感情と向き合って、お互いに思っていたことを言い合いました。

姉なりに必死で妹を守ろうとしてきたこと。
妹はそれが姉の独りよがりの思想にすぎないこと。

こうなってくると言い合いは止まりません。
小さいことから大きいことまで、ひたすらぶつけ合いました。お互い悪かったところは謝りました。

私も妹に対して言えなかった我慢していたことを言い、妹も私に対して我慢していたことを言い合ったのです。

こうやって本音をぶつかり合うことで、これまでで一番仲が良くなり、今ではお互いの一番の理解者になることができました。

小さい頃から色々なことを考えていた妹は、深い洞察力の持っていて、私自身も気付いていなかったことにも気付かされることも多くありました。

妹と2人で夜遅くまでたわいもない話をしたのは貴重な時間だったと思います。

コロナ禍の時、私は病院と家の行き来だけになり、妹はオンライン授業になりましたが、家の中には絶対的な味方がいると思うことで、妹の存在に何度も救われました。


妹が大学を卒業する4年間、私たちは2人で東京の荒波を潜り抜けました。

大学を卒業して、妹が北海道に帰ることになりました。妹の荷物を引っ越し業者が運び出して、最後に妹を送り出した時、その背中を見てとても感慨深い気持ちになり、一人隠れて家で泣きました。

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