9月1日をこえた私へ / 230902 / CLOSE
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昨日は9月1日だった。
照りつける熱が湿度が辛かった。
たくさんの視線、感情、言葉。
あの日のことをまだ全部覚えている。
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友人と映画『CLOSE』を観た。ベルギーの映画で、映像がひたすらに美しかった。美しいが故に残酷で、こんなにも丁寧に「終わり」を描いた映画もきっと珍しいと思った。映画を観る時に、私たちは何かドラマを期待してしまう。現実には起こり得ない、どんでん返しのような、起伏のようなもの。けれどこの映画には、それがない。そのことがとてもリアルで残酷だ。起きてしまったことはもう二度と取り返せないということ。終わった後の静けさ。その喪失にただ向き合うことしかできないということ。その事が丁寧に描かれている。
片時も離れることのなかったレオとレミ。二人の間にあった永遠は、ある日突然終わりを迎える。何も残さずに。永遠を壊したのはレオだけれど、それと同時に、新たな永遠を作ってしまったのはきっとレミだ。レオはこれから先、二度と癒ることのない苦しみを抱えて生きていかなければならない。これから先、空いてしまったその空白に誰も座ることなんてできない。
喪失について考える時、私はいつも宇多田ヒカルの言葉を思い出す。「なぜ人は誰かと別れる時に痛みを感じるのか」それは「痛みが潜在的に存在していて、その存在自体が痛み止めになっていたから」失う痛みはきっと正しいのだ。その痛みは存在の大きさに比例する。忘れていた孤独を思い出す。だから私たちは正しく痛みに向き合わないといけない。それまでの関係に感謝しながら。
宇多田ヒカルは「苦しみを声に出して伝えることが傷を癒すための方法である」とも言っている。誰かに助けを求めること、抱え込まないこと。けれどその言葉が周りが支えきれないほどに重かったとき、どうすればいいのだろう。「会いたい」とただそれだけを望んでも、もう二度とそれが叶わなくなった少年の苦しみを周りはどう救ってやれるというのだろう。
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日曜日に映画を観たのに、まだなんとなく引きずってしまって、ページの端が黒くなってしまうほどに読み返している二階堂奥歯の『八本脚の蝶』を本棚から取り出して布団の側にお守りのように置く。時折、どうしようもなく彼女の言葉が必要になる。この世界を諦めてしまった彼女を求めて、何度も戻ってきてしまう。読むたびに、そこにある圧倒的な教養と美しい言葉に圧倒される。私が探している言葉がそこにはある。さん、に、いち。これが世界から離れるための時間。彼女を大切に思う人が大勢いた。けれど彼女をこの世界に引き留めるものはなかった。まだ彼女の言葉が必要だったのに。
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ずっと変わらないでいてほしいのだ。強く願う。永遠がほしいのだ。変わらないもの、確かなもの、そんな何かが欲しい。漠然と不安や焦りを感じている。失うことに対して。その苦しみがずっと続くなんて、耐えきれないと思う。けれど残されるものの苦しみは、消えることがないということを知ってほしい。振り返った時にはそんなこともあったと笑って言えるように、今を耐え切ってほしい。
まだ覚えている。
もう会わなくなった人のこと。
けれど9月1日はもう超えた。