コロナ以前の世界から
2020年初頭から、中国を震源地とする新型コロナウイルスは世界中で猛威を振るい、多くの都市はロックダウンし、全世界的に経済活動がストップしています。
私は着物の個人輸出を生業とする個人事業主として2年ほど前に独立しました。しかし実際はそのタイミングで立て続けに3社から仕事をいただいたので、主たる生業である着物屋をしばしば脇に置きながら、それらの仕事中心の生活を送っています。特にタウン誌の編集者として、出稿前は寝る間もないほどの多忙さを極めていました。
そんな毎日は日を追うごとにますますタイトになっていきました。今やどの職場でも管理職や責任あるポストに就かせていただいており、私の行動は責務が帯びるようになりました。マルチタスクをこなす快感は、時々捉えどころのない疲労となって私に覆いかぶさるようになっていました。
そんな中でコロナウイルスが本邦にも猛威を振るい始めました。オリンピックの延期が決定し、学校は休校措置が取られ、街は非常事態宣言下に置かれました。
編集の仕事においては、大きな広告主が休業を迫られる事態となり、また、感染拡大を危惧し、自由に取材が出来ない状況になりました。また、着物の輸出においては、主要相手国への国際郵便小包の引き受けが止まりました。ヨーロッパに出したはずの荷が当該国の郵便事情のダウンにより、返送されてきました。
それでも自分の事業を入れて4つの仕事をしていたので、2つは生き残り、引き続いての職務に当たっています。また、編集の仕事も、輸出の仕事も、基本的に在宅で出来る作業ですので、コロナ明けを目指して細々と畑を耕し直すことは可能です。
そんな日々、まだまだ幾らでも耕す畑はある身分でありながら、なんだか燃え殻のように、やる気が喚起できない自分にある時気が付きました。
元々それほど毎日を勤勉に送るタイプの人間ではありません。生活リズムは全く規則正しくもないですが、一応社会人として最低限のラインには辛くもぶら下がっていたと認識していました。ところが、まったくもってPCに向かう気が起きないのです。資料を検索し、文章を繰る、快感だったはずの作業から頑なに逃げ続ける自分がいました。
なぜだかは、すぐに察しがつきました。
要は私は心の底から休息を求めていたのです。それが、コロナ禍によって如実に、揺るがしがたく顕在意識に上がってきたのでした。休みたい、その心の叫びは、思えば慢性的に私の深層心理に流れていたのです。たとえ休暇でも帰省がマストです。その帰省のために、直前まで無理をする。それでもPCを持って帰省する、帰省先は私にとってはとっくの昔に離脱した「旧世界」で、居たところで全く心休まることがない世界、それを「親孝行」と心偽ってこなしていた数年間でした。
それが今、経済活動や移動が最小限に抑えられ、私は辛くも自由な時間を得ました。海辺からは人が去り、潮騒だけが声高らかに歌っています。この街だけじゃない、世界中の海辺で、森で、街で、自然は本来の安らぎを取り戻しています。空は澄み渡り、水は清澄に、山河はひたすらに蒼く、動物たちは怖れから解放され、生を闊歩しています。
その現実は、人類がいかに無駄と汚染を算出しながら金銭を捻出することに躍起になっていたか、その浅ましさを露呈しました。私個人とて同じことで、生存にとって特に不可欠ではない事業から、少なからずの金銭を得ていました。文化活動とはそういうものかもしれませんが・・・。
茫然自失とした頭を乗せた私の心は、ある日、自室の奥にある着物を始めとした膨大な布のストックを一つ一つ確かめることに向かいました。長きに渡って集めた、宝物のような布たち。はさみを入れることなどついぞなかったコレクションを、私は迷いなく裁断しました。そしてこつこつと手縫いでマスクを作り始めたのです。心からの呼び声でした。糸とて、針に通したまま数年間放置していました。幾つかの針は錆びついていました。それらを一つ一つ整理しながら、私は日々、手縫いに没頭しています。
「縫うことは、そこに心を置くこと」。ふと開いた手縫いのテキストに、そんな一文がありました。衝撃を受けました。なぜなら、この数年間、忙しさにかまけて心を失い続けてきたことがはっきりわかったからです。あの熱狂は、寝る間を惜しんで情報誌を制作した日々は、何だったのだろう、コロナによって一瞬にして価値を失った情報のために、私は命を差し出してきたのだろうか。そんな問いかけをしながら、針と糸を持つ日々です。
心を取り戻したら、きっと答えが出ると思います。コロナ以前の世界で、奮闘していた日々の意味も、もっと優しく認めることができる、そう希望しています。