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Festina lente

 現代は、とりわけ「速さ」という概念が尊ばれている時代であって、一分二分の時間短縮の為に途方もない設備投資を行っている交通機関はもとより、情報通信然り、物流業然り、一体、明け方に頼んだ荷物を日没までに必要としなければならない向きがどれほどいるというのだろうか。多様化したメディアは不眠不休で速報を配信し、地球の裏側で起きた出来事がリアルタイムで携帯に通知される時代に、輪転機で印刷し、人力で配達される紙媒体の新聞など、今やどこか牧歌的な趣きすら感じられて、電報は既に過去の遺物となっている。そうやって世の中が、衣食住、何でもかんでも急いでいるものだから、自然と気持ちも前のめりに、切羽詰まったものになり、本当は急ぐ必要の無いものまでが煽りを食って急がされる羽目に陥って、ヒトは益々せっかちに、遮二無二結果ばかりを求めている。

 最近は「ファスト映画」という言葉もあるらしくて、本当は二時間かけてじっくり鑑賞するものであるはずの映画作品を、名場面だけ繋ぎ合わせて十分くらいの短編にまとめ、創り手に断りも無く動画サイトで配信しているようで、著作権法に違反しているにも関わらず、そのせっかちに結果ばかり知りたがる向きには相応の需要があるらしい。同じような傾向は出版界にも伝染していて(どちらが先か知らないけれど)、こちらは商品化されているから法的な問題は無いのだけれど、古今の名作を「あらすじで読む」ダイジェスト版が次々と出されていて、手っ取り早く読書感想文を仕上げる為に使うのか、あるいは本当にあらすじだけ読んで満足する為に使うのか、それなりの需要はあるらしい。

 これは言うまでもなく、映画にしても、文学にしても、一つのシーン、一つの台詞、そして一つの文章や単語に、創り手は想いを込めて、映画ならば二時間、文学ならば本一冊の長さに自然と帰結したのであって、新聞や論文のように、情報を伝えることを目的としない芸術作品については、そもそも「結果」や「結論」というものが存在しないということを、今や人類は忘れかけている。映画ならば冒頭のワンシーンも、ラストシーンも、芸術的な観点からすれば全くの等価値であって、俳優とても、冒頭だから片手間に演じ、エンディングだから全身全霊で芝居をしている訳ではない。全てのシーン、全てのページに、価値は宿り、無駄なものなど一つも無い。だから、それをかいつまんで読み飛ばす、断片を継ぎ接ぎにして簡約版で済ませるというのは、折角の御馳走をつまみ食いする、咀嚼もせずに丸呑みにしているようなもので、栄養も味覚もあったものではなく、ただ鑑賞を終える(それを鑑賞と呼べるのなら)時間が短縮されたという、それこそ味も素っ気も無い事実しか残らない。

 かつてカエサルは、遠征先から「来た、見た、勝った」の報告を送ったというのは、それが「情報」だから許される話なのであって、元老院も、ローマ市民も、知りたいのは戦闘の結果、「勝った」か「負けたか」の一事であり、誰も長大な名文で綴られた戦記物語を期待している訳ではないことを、カエサルは知っていた。だから、その「ファスト映画」にしても、「あらすじで読む」にしても、情報文では是とされるルールを、芸術作品に応用、もとい混用しているから、おかしなことになり、そんなに急いでいるのなら、大抵の恋物語は「会った、好いた、結ばれた(別れた)」の三語で済んでしまうことに気が付くべきである。だから映画であれ、文学であれ、また絵画や音楽であれ、芸術作品と向き合う時は、じっくりと時間を掛ける、なぜ監督は「間」を挟んだのか、その「間」は十秒でなく一分だったのか、なぜ作者は「吾輩」という言葉を選んだのか、その一人称は「私」でも「俺」でもないのか、そういう読み手の詮索、鑑賞という名の吟味する行為もまた、実は作品に付帯する愉しみの一つであって、およそ「ファスト」な態度とは対極に位置する姿勢であると言えるだろう。

 大方の向きは外国語の文章を読む時に字引を使うはずで、仮に対象が英語であるのなら、此の国の義務教育は英語を必修科目と位置付けているから、実に中学以来、相当な回数、字引を開いている訳で、たが、その引き方が、実は「ファスト」になっていないか、という話である。最近は辞書学習といって、丁寧に字引を使うことが推奨され、その教育上の効果も認められているようだけれど、字引こそ最初に掲載されている語義や語釈を書き取って済ませるのではなく、じっくりと読む、編纂者が精魂込めて作り上げた言葉の宝典を味わうべきで、ただ訳語だけ見て話が済むのなら、あんな分厚い字引など要らず、単語帳で事は足りるはずである。その言葉が最も頻繁に、且つ模範的に使われている例文であるとか、類義語、反対語、また連語(コロケーション)といって、その言葉と共に使われる(共起する)相性の良い言葉など、およそ言葉を読み、使いこなす上で有用な知識が、これでもかと詰め込まれているのが字引である。

 ラテン語に「Festinaフェスティナ lenteレンテ」という諺があって、現代の日本語に直せば「ゆっくり急げ」という意味になる。一見、矛盾した戯言のように感じるけれども、まさに読書に対する姿勢こそ、ゆっくり急がなければならなくて、先人の遺した古今の名著だけでなく、日々出版される膨大な量の書籍の全てに眼を通すことなど出来はしないのだから、選び抜かれた作品を、「ファスト」でなくじっくりと、字引を使いながら読み味わう為にも、「Festinaフェスティナ lenteレンテ」は現代に通ずる金言として胸に刻むべきだろう。だから、海外の支社から届いたメールだとか、英字新聞の見出しだとか、素早く情報を掴み取る必要のある文章ではなく、芸術として創られた作品に接する時は、つい夢中になって読み急ぐ手を少し止めて、呪文のように「Festinaフェスティナ lenteレンテ」と呟いてみては如何だろう。アイソーポス(イソップ)の古典「ウサギとカメ」は、昔も今も、地に足を着け、景色でも眺めながら丁寧に生きるカメほど得るものは大きく、ファストに慌てるウサギは、脈拍と血圧ばかりが増えて、結局、貧しい人生に終わることを教えている。

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