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文学の晩鐘

 芸術が芸術である理由は、ただ美しいからではなくて、常に美しく、また、意思を持たないが故に、つまりは、作品と鑑賞者との間に恣意的な関係性が存在しないが故に、安心して鑑賞することが出来るからで、その対象が、絵画であれ、音楽であれ、また文章であれ、それら普遍(不変)の価値を宿すものであるならば、芸術は芸術足り得るということを、初めに断っておかなければならない。だから、ダヴィンチが描いたから芸術なのでも、ベートーヴェンが弾いたから芸術なのでも、漱石が書いたから芸術なのでもなくて、それは知識ないし先入観が定義した芸術に過ぎなくて、むしろ、そういう思考で定義されるものは、内発的理由から導かれたものではない、外から仕入れた後付けの理屈である。だから、あくまで対象、すなわち作品が先にあるのであって、その対象が「常に」美しいか、また、意思を「持たない」か、によって芸術の価値は決められるもので、もっとも、意思云々については、対象がヒトでなければ、生命あるものも、生命の無いものも、あまねく感情は無いものと思料されて、鳥や魚でも、路傍に咲いた一輪の花でも、そこに意思の介在しない普遍(不変)の価値を認めることが出来るのであれば、それは芸術になる。

 その芸術の一様態である文学が、小説に限らないことも、これまで口を酸っぱくして伝え続けて来たことで、それは小説に準じて想い浮かべるであろう詩歌だけでもなく、およそ文字の集合である文章によって創造された作品、すなわち論文や新聞、あるいはキャッチコピーの類もまた、普遍の美しさを宿しているのならば、それは紛れもない文学、すなわち芸術になる。此処では話を文学に限ることにして、その文学が、文字を失いかけているという傾向に、一抹の不安を覚えていて、もちろん、普遍の美しさは文字量で測るものではないのだから、詩歌やキャッチコピーも芸術になることは、今言った通りで、ただ此処で危惧されるのは、本来、文章を以て語らなければならない対象の文字量が減っている、活字が減っているという実態であって、例えば「あらすじで読む」のような企画だけでなく、電子端末で読まれることを想定してか、小説にしても、論文にしても、読んで読み足りない、よく言えば優しく(易しく)、ともすれば口語に偏した文体が流行はやっているようで、それら作品に慣れた向きには、戦前どころか、戦後の川端や三島の作品さえ、難解だとか、漢字が多いとか、内容以前の、形態論的に嫌悪される有様で、一体、これは此の国に限った潮流であるのか、世界的な趨勢であるのか、これを文学の危機と言ったら大袈裟に過ぎるだろうか。

 だから、そういう向きに受け入れられる為には、一文を短く、改行を増やし、行間を空けて、「ですます」調のような口語体に努めることであって、一見すると詩歌のように広い余白を取って、紙面から活字による圧迫感を受けない工夫を凝らさなければならなくて、工夫と言ったのは、作家の方でも、本当に伝えたい真理や機微を、その限られた文字量と文体に込めなければならない制約を指している。もっとも、絵画の分野においても、アカデミー公認の古典主義に反発する形で印象派が革命を起こしたように、絵画や音楽の作風同様、文学における文体もまた、時代によって新しいスタイルが創造されることは自然の理であり、そもそも「小説」という言葉自体が「novel」(新しさ)を意味して、古来、詩歌に始まった文学の歴史の中では新参のジャンルであることを忘れてはならない。言うなれば、昨今の文体軽量化という風潮も、よくよく俯瞰すれば、古代文明の叙事詩に始まる文学という長い伝統の中にあって、近代も近代、十八世紀になって本格的に姿を現した小説の一潮流、末葉末派のさざ波と見なすことも出来る訳で、ただ、我々が注視しなければならないのは、そこに普遍(不変)の美しさを認めることが出来るか、の一点ということになる。

 芸術にとって、「美しさ」が欠くべからざる要件であると共に、見る者(聴く者/読む者)に対して、さらに「心地良さ」を与えることが出来るならば、その作品は間違い無く名作の賛辞を獲得するはずで、錯覚してはならないのは、「心地良さ」と「愉しさ」(明るさ)は必ずしも一致するものではないという話で、例えばチャイコフスキーの六番などは、万人の認める名曲ではあるけれども、「悲愴」の題が示すように、全編哀しみに満ちていて、決して明るい気持ちになれるものではない。然しながら、老いも若きも多少なりと人生の悲哀を味わった向きならば、その哀しみの旋律の中に、自己の悲哀を投影することが出来るはずで、その同調した感覚に、ヒトは心地良さを覚え、美しい調べに宿る芸術を認めることになる。表裏一体、明るさの対極に暗さ、悲しさはあって、美しさは明るさの占有するものではなく、暗さや悲しさの中にも美しさはあって、チャイコフスキーや堀辰雄は、悲しさという普遍(不変)から美しさという普遍(不変)を引き出し、芸術の名に値する名作を後世に遺すことが出来た。

 果たして、ますます軽量化に拍車が掛かる現代の文学は、単に形態論にとどまらず、易しさと判りやすさを追求するあまり、普遍(不変)の真理、すなわち美しさを描き切る、過不足無く表現することが出来るのだろうか。速さと判りやすさを渇望する市場に対する迎合が、実は読み手の読解力や感受性を無力化し、簡単なものでなければ読みたくない、という忌避感が、やがては、易しくなければ読み取れない、という鈍感に変わり、文学という文章芸術の粗鬆症そしょうしょうを招くことにはならないだろうか。文章の軽量化と、文字数の少ない詩歌との間には、千里でも足りない天地雲泥の差が開いていて、短い一節に真理を込めようとする詩人の身を削る営為を、現代の口語作文に見ることは出来ない。芥川をして「人生は一行のボオドレエルにもかない」とまで讃えられた十九世紀の詩人は、一節一節を積み上げて、数々の美しい作品を成した。その一節は、短い。けれど、決して易しくはない。代表作『悪の華』は、構想に十年を要したとも言われている。

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