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今日、再びの俳句歳時記。
朝、ひとつの窓を開けておいたリビングに入ったとたん、雨の薫りがした。
そうか。外は霧雨。
雨を感じながら身支度をすませ、冷蔵庫からぬか床を出す。
手でかき回すと、青々とした胡瓜の頭がのぞいた。
可愛らしかった。
雨の薫りと相まって、私のなかに句が生まれた。
その後、私はウオークインクローゼットの片隅にあった「俳句歳時記」を手に取る。
断捨離で殆ど全ての書物を処分した私。でも、残しておいた歳時記。
捨てなくてよかった。
胡瓜の季語は「夏」。
霧雨の季語は「秋」。それを確認した。
外は「霧雨」だけれども、それは使えない。
だって、季語重なりになるから。一番使いたいのは「胡瓜」だから。
そして、頭に浮かんだ句を整える。
① ぬか床の胡瓜ほほえみ雨かほり
➁ ぬか床ののぞく胡瓜や雨かほる
ふたつの句。どちらがいいのか、私には判断が難しい。
とりあえず、①をTwitterでつぶやく。
そう2018年7月16日、私はそれまでのTwitterを心機一転新しくし、改めて俳句の投稿を始めた。
そして4か月後の同年11月22日、最後の句の投稿をしてしばらく俳句から遠ざかった。
その直後に私は自分に激怒し、二日後に長瀞に行った(11月24日)。(詳しくは「夫の退院日の朝に思うこと」参照)
従って今朝のTwitterでの俳句投稿は、2年半ぶりとなる。
さて、この①と➁の俳句についてであるが、私の高校の友人のひとりの俳人にアドバイスをもらおうとMessengerで問うた。
目的は、今後の俳句創作に際してのヒントを得たかったから。
そして返信の内容は以下のとおり。
*➁の方がずっといい。景が見える。
*①も悪くはないけれど「ほほえみ」がやや曖昧。「雨かほり」も句が流れてしまっている感じがする。
*私のオシは➁。「ぬか」は漢字にした方がいいかも。
ああ、そうか。やはり俳句はそれを目にした方に景色が見えないといけなかった。(プレバトの夏井いつき先生も度々そう仰っている)
糠床ののぞく胡瓜や雨かほる
本日の句の完成形である。
・・・・・
かつて、もう詳しくは語れないけれど(忘れたい・忘れた・思い出してはいけない、ため)どん底のどん底に陥っていた私は、あるとき自分の溜めに溜め込んだ思いをどうにか発散させないといけない状況に陥っていて、そのひとつの光として俳句に挑戦をした。
俳句は、ご存じのとおり、五七五という十七音のなかに季語を入れ込み、自然を詠むうたである。
その最も厳しい制限のなかで自分らしさを表現する、という極限に挑むことで、私は当時のままならぬ精神現実を突破する糸口を見出そうとしたわけだ。
俳句というのは、本来ならば「自然を詠む」もので、短歌や川柳、詩のように「ひとの心」を詠むことは少ない。
けれども、私は私の喜怒哀楽、特に怒と哀を表現してしまった。
その過程で、私の内側に巣くっている闇を絞り出したかったからだ。
そして同級生と繋がっているFacebookで、私はその句をいくつか公開した。俳人の友人は「いいんじゃない?その方向で進んでみても」と言ってくれた。
だから絞り出した、私の闇を膿を。
「呪縛」
曼殊沙華根の毒我が毒母の毒
揺れ紅葉われにせまり来る幸と罪
ないてないてないて仰げば鱗雲
界の隅きらり飛び入る烏瓜
太宰入る上水の流今は足らず
グラジオラス見上げて吐息ひとりぼっち
炎天下坂の下まで家出する
今度こそ愛されたひとカーネーション
毬栗の棘より痛し母の言
父の死の真の実知り竦む師走
寒椿父の命日うるう年
月澄みてつうとほお馳す温き水
歳時記をぱらりぺらぱら憩う秋
髪切りて気分はbossanova天高し
おんぷ跳ねこころも跳ねて小鳥来る
紅玉がステップ踏んだらいと楽し
嘘ごろも牙ひそめしや葉カマキリ
死してなお肩にとまるか紅毒蛾
哀憐悲知るよしもなし女郎蜘
愛と憎裂け柘榴の血あわせ鏡
おわかりの方もいるかもしれない。
曼殊沙華の根の毒・葉カマキリ・紅毒蛾・女郎蜘・裂け柘榴は、母のことである。
そして体言止めばかりの、甚だ厳しい、醜い句ばかりだ。
・・・・・
その後、平成27年(2015年)の春、私は、角川学芸出版が刊行している雑誌「俳句」の「角川俳句賞」に応募することを決めた。
母の亡くなるちょうど1年前のことである。
もちろん、私のような素人が応募する賞ではない。
それでも、私はそれに応募することで、自分を乗り越えようとした。
応募条件は、未発表の50句。
上で紹介した句は、20句。あと30句を加えないといけない。
友人曰く「応募の50句は、10倍の500句を詠みそのなかから選ぶ」努力は必要と。
いや、それ、全くの素人の私には無理だから!
それでもなんとか倍の100句は詠んだ。そして、50句を選び、その最終に選んだ句の(上の句の最後)「あわせ鏡」を題とした。
そう、母と私は「あわせ鏡」であるのではないか、を心底恐怖していたから。
50句を選び、清書をし、無事ポストに投函し終わった私は、予想通りにかなり清々した。
「文字にする」ということは、私にとって非常に「意味がある」ことだった。
さて、その50句だが、どうやら私はその清書を断捨離してしまったらしい!
一応取っておこうかな?とは思ってもいたのだけれども(笑)
・・・・・
その後、私はできるだけ「自然」を無理なく詠むということを目標に掲げた。
何冊かの本で学んだものの、特別に誰の教えも乞うていない、あくまでも自己流の俳句である。
Twitterに残っている俳句のうち、私が好きな句を10句選んでみた。
光景が目に浮かぶといいのだけれど。
秋暑し開きっぱなしのドリル帳 (秋暑し:秋)
漆黒の山迫りくる無月かな (無月:秋) ☆
連ドラについホロリとす処暑の朝 (処暑:秋)
嗚呼という父指差すは鰯雲 (鰯雲:秋) ☆
枝豆の残りひとつを弟に (枝豆:秋)
もぎた梨みっつ抱える子の笑顔 (梨:秋)
新入りの案山子におはよう新学期 (案山子:秋)
秋の田に雲かげひとつ滑り行く (秋:秋)
口あけてお芋まあだと待つ子ども (芋:秋)
すきなこのうちのこたつで足ずもう (こたつ:冬)☆
☆印の句は、夏井いつき先生主催の「俳句ポスト365」で並選を頂いたもの。
並よりも上を頂きたいのはやまやまだったけれど、俳句に必要なのは「多くの経験」である。経験の中でも特に必要と思われるのは、多くの自然と場所に触れ、そこで何かを感じた経験。当時の私には、そこが決定的に欠けていた。だから、浮かぶ句は画一的になり、もう広がりを持てそうになくなったわけだ。そして、創作を止めた。
だけれども今朝、ふと、霧雨の薫りを感じ、ぬか床の胡瓜の緑を美しいと感じた私には、句が舞い降りた。
もしかしたら、創れるかもしれないと感じることができた。
そして、歳時記をもう一度そばに置き、できるだけ光景が浮かぶ句を創ってみたいと思った。
・・・・・ end ・・・・・
タイトル画像:もう一度日の目を浴びた歳時記。
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