【ピリカ文庫】タツナミソウ 【ショートショート800字】
母さんから
「父さん、あんたに会いたいんだって」
と電話をもらったあの日、病室で二人きりになった僅かな間に父さんは言った。
「悪いが、ここを訪ねてみてくれないか」と。
そして僕は一通の手紙を受け取った。
その日、父さんは死んだ。
その頃の僕は、仕事が軌道に乗り始めた矢先で、その手紙を気にしつつも時間がとれず、ちょうど一年目の今朝、漸く新幹線に乗った。
車内で初めて、封筒から便箋を出す。
そう僕は、ずっと、手紙を開く勇気がなかったんだ。
丁寧に三つ折りされたニ枚綴りの便箋には、淑やかな文字が並び、そして色あせ千切れそうな小さな花が、ひと房挟まっていた。
やはりそれは、差出人から父さんへの恋文。
そして「立浪草の花言葉をあなたに」という不思議な一文で結ばれていた。
僕は、新大阪で降り、紀勢線特急「くろしお」に乗り換える。
手紙の日付は、僕の誕生日の5年ほど前だ。母さんと家族を何よりも大事にしていたあの父さんにも、秘めた思いがあったのか。
串本駅で降りバスに乗り、停留所「黒潮」で下車。
ここが目的地、潮岬。
釣り人が通りかかり、ふと思い出した。
まだ僕が小さいときに「父さんは、こんなに大きな石鯛を釣ったことがあるんだよ」と自慢したことを。
バス停の向いには閉めた民宿が1軒。その朽ちて色あせた玄関の表札は、手紙の差出人の苗字と一緒だった。住み人はいない。
かつて、父はここで石鯛を?
ああ、きっとそうなのだ。
ここは父さんの海だったのだ。
岬に向かってゆっくりと歩く。
芝で整えられた公園は美しく、そこで僕は、列車の中で調べた紫の小花を見つけた。
これが立浪草か。
父さん。
父さんには愛した人がいたんだね。
立浪草の花言葉を知った父さんは、何を思った?
どうしたかった?
僕は立浪草をひと房抜き、手紙のなかの色あせた立浪草と一緒にした。
父さん、遅くなってごめん。
これでまた巡り合えるよ。
立浪草の花言葉。「私の命捧げます」。
陽の光に立浪草が輝いた。
・・・・・ end ・・・・・
タイトル画像:和歌山県・潮岬の立浪草。