愛
「あいうえおnote」の「あ」は「愛」。
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まず、植物への愛で考えてみる
私は、我が家の、3㎡+α、半分バルコニー、半分ベランダ、の小さな屋外空間と、まあまあな広さのリビングの室内空間で、30種類ほどの植物を育てている。
今は、寒い季節なので、その子たちは一見おとなしくしているけれど、実は、寡黙なその姿の奥で、芽吹きの準備が、着々と、粛々と。
そんな寒さのなか、先日、私は失敗をした。(私の方が寒さに負けて、見守りを怠った。)
冷たい雨にあたって、ガジュマルが葉を落としてしまったのだ。
(詳しくは☟)
「ごめんよぉ、ガジュマル」。と反省し、改めて、私が、私の植物たちにできることを考えた。
その基本は以下のとおり。
これらは、植物たちに注ぐ私の愛だ。
もちろん、ひと目見たとたんに、ドキューンとハートを射抜かれて、連れて帰った鉢もあれば、長年憧れ続けて、ようやく巡り合ったひと鉢もある。
それは、その子たちへの「恋」。
だけれども、その子たちが元気に暮らせるように、成長できるように、心配りを日々する間に、恋は愛に変わる。
スキ、すき、好き~、だけでは、背は高くなっても茎が細くて、ひょろひょろくんになったり、葉っぱはたわわになるけれど、綺麗な花がつかなかったり、あれよあれよと萎びて、土に同化したり。
植物には、本当の愛が必要なのだ。
だって、本来なら、植物は、それらが一番居心地のよい場所に、自然に植生して、種を残すために、長い年月、それぞれ工夫をして頑張ってきたのに、それを、人間の勝手なエゴで、とんでもない所に連れてこられ、そこで、無理やり生活させられちゃっているのだから。
面倒をみようと思った人は、その植物が、与えられた狭い範囲のなかの、どんなところで、どんな状態で暮らすのが一番いいのか、よぉく考えてあげないといけない、と私は思う。
植物への愛は、易しい
このような、ちょっと押しつけがましい私の愛を、植物というものは、あっけなく、そして、そのまんま受け入れてくれる。
そういえば、植物には自我がないし、喜怒哀楽もない。
ドキューンと私のハートを射抜いた植物が、私に恋することもなければ、「好みじゃないよな」と拒絶することなど、絶対にない。
だから、恋心ドキドキの恋愛なしに、速攻、相手の居心地のよさだけを考える、一方的な愛の関係に突入できるのだ。
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また、植物には、愛をひたすら貫くだけ、も実行できる。
「これだけ愛しているんだから、きっとあなたも。。♡」
「こんなに思っているのに、そんな仕打ちをするのか。」
などと、不謹慎な見返りを願ったり、しんどい代償を求められることはない。
綺麗な花が咲くのは、かけた愛の結果。
もし、枯れてしまったら、かけた愛のベクトルが違ったから。
ただ、それだけ。
人への愛は、難しい
でも、相手が植物でなく、人間の場合は、なかなか厄介な問題が生じる。
相手が、生まれたばかりの赤ん坊なら、親や大人の一途な愛を、まんま受け入れざるを得ないけれど、自我が少しでも芽生えてきたら、受け入れのパーセンテージは、年齢と逆比例。
どんどんと下がる。
まっとうな親と子の関係だったら、実はそうでないと困る。
もし、それに気が付かずにいると、それは、あっという間に、過度な愛情注入に。
一方的愛情過多は、単なる自己満足の結果となり、多々、不幸な親子関係を生み出してしまう。
どのあたりで、一途な愛を控えるのか、その頃合いを見つけることは、難しい。
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恋愛は、その文字のとおり、相手に恋しつつの愛。
その期間には、ついつい、相手に見返りを期待してしまうことって、多いと思う。
だって、ドキドキ、キラキラお互いしていて、まだ、相手の芯まで知らなくて、(一緒に暮らしても、結婚しても、わからない場合もあるけれど)必死に、愛してますアピールをしてしまうから。
そうでないと、不安マックスになってしまうから。
そして、その分、必死に、相手にも求めてしまうわけで。
それって、恐らく「ほんとう」じゃない。
でも、最初から、相手に求めないことは、難しい。
最初から、そんな仙人にはなれない。
そして、真の私の愛
すみません、私、少し奢ったこと言います。
アラカンだから、許してください。
どうやら私、最近、仙人化してきているみたいです。
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植物は、かけた愛の結果として、かわいい小さな葉を出してくれたり、新しい枝をどんどん伸ばしてくれたり、美しい花を咲かせてくれたりする。
私は、それを見て、笑ったり、嬉しくなったりする。
そんな機会を私に与えてくれる、可愛い植物たちに、自然に感謝の念がわく。
また、一方で、私は、私の大切な人たちが、心から笑ったり、嬉しそうにしているのを見るのが大好き。
「楽しい?」と聞いて、肯定の返事がくると、「ああよかった。」と心底思う。
ここまで生きていられてよかった、と思う。
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今、ほぼ24時間一緒にいる夫には、まるで植物を見守るが如く、
昨日と、変わったところがないかな、表情はどうかな、と観察し、
歯磨きはちゃんとしたかな、お薬ちゃんと飲んだかな、
寒くないかな、と心配し、声掛けし、
野菜はきちんと取ろう、と八百屋に毎日寄り、
お水も多めに取ろう、とグラスを渡す。
穏やかな顔をしているときは、よかったなぁと思い、
少し険しい顔のときは、ありゃ、どうした?と横目で観察し、
頭をくしゃくしゃっとするときは、きっとイライラ、そっと静観する。
これらは、どれも、どうってことないことだけれど、自分でない「ひと」に毎日されると、鬱陶しいことだったりもする。
でも、夫はこれを全部受け入れてくれる。
「受け入れてくれている」という確信は、安心につながる。
恐らく、これが夫の私に対する愛。
そして私は、夫の笑顔が見たくて、嬉しそうな、力を抜いた素顔が見たくて、くだらないことを言ったり、ちょこっとした悪戯をしたりする。
だって、これまで彼は、さんざんキツイ思いをしてきただろうし、意に反した、嫌な経験もしてきたに違いない。
もう、そんな時期は終わったんだよ、と、もう、肝の肝から(そんな言葉あったっけ?)力を抜いていいんだよ、と、どうにか感じてほしいのだ。
夫には「楽しい?」とは尋ねない。
ただ、「楽しいねっ」と微笑みながら言うだけ。
それが、今の私の愛だ。
・・・・・ end ・・・・・
タイトル画像:数日前、我が家にやってきた真っ赤な,、アンスリウム。
情熱のハートみたい。