看護師生活の振り返り
仕事という仕事を手放してもうすぐ二年になる。なんだかんだで夫の仕事の手伝いはしているものの、軽い事務作業の収入なんかたかが知れているもので、今は美容室にだって行くのを躊躇してしまう。
実際きちんと働いているといえない私たちの収入はどんどん減っている。でも「きちんと」ってなんだろう?世間では「会社勤務」していることが信用材料になっていて、さらに大手(上場しているとか)であればあるほど「きちんとしている」って言われるもの。こんな価値観なんてもうなくなるだろう…と推測していたものの、まだネームバリューが価値を決めるような世の中は変わらない気がする。
フルタイムで勤務していたのは2020年の春まで。看護師の仕事はとてもやりがいがあると思っている。それは急性期の病院でも外来でも訪問看護でも一緒であって、患者さんの力になれると思えたケアを行えた時は本当に「やってて良かった」と思っていた。でも、全力で頑張りたいと思って動いていると、なぜか周囲とのひずみが生じてしまう。今思うと他者の対応も理解できるところはあるのだけれど、恐らくは「きれいごとだけじゃ動けないよ!」「なんでこんな面倒くさいことばかり言うの?」「仕事増やすなよ」「適当に流せば良いのに。うざい。」といったことを思われていたのだろうな、と。
昔から自分と同じ立場側の配慮よりも、対峙する側の目線を考えていたいと思うことが多かった。飲食店のバイトをしていた時も、自分たちがどうやったら仕事内容を楽しく思えるか(というより楽に働けるか)ということよりも、お客さんにとって良いと思えるサービスはどちらだろう?ということを考えていた。ものすごくきれいごとを言うようだけれど、その意識がなぜかとても強かったけど、それは善悪つけられないことであって、自己犠牲のもとに仕事はあるとすら思っていた気がする。
患者さん目線で考えよう、と思うばかりで上司・同僚目線で仕事を捉えるということを全くしていなかった。普通のスタッフは「ある程度決められた仕事をこなして、臨時の入院があれば対応して、適度に残業して帰る」それだけでも十分だと思っていると思う。普通の上司は「ある程度の入院稼働率があってスタッフが急に休むこともなく、ミスもなく、毎日無難に過ぎていけばいい」そんな風に思っていると思う。そんな上司にとってはいちいち問題提起しては話し合いを求めるような自分は、面倒くさい存在であるのは間違いない。例えば、子供もいて時間制限がある中で勤務する人は、決められた仕事内容をきちんとこなすだけで十分だと思っている。残業なんてする余裕はない。子供がいなくても、時間内だけ普通に働いてお金をもらいたいと思う人なんてざらにいる。皆が皆患者さんの生活をより良くしたい、なんて考えるわけではない。
偏っている考えを持っている私であったけど、勤務した病院では毎回数人は同意してくれる看護師がいた。ただ二人で話している時は同意して本人の意見も述べてくれるのに、スタッフが集まるカンファレンスでは絶対に自分の主張を伝えることはなかった。固執した考えを持つスタッフに対して、周囲の目線は厳しいことが分かっていての結果だったんだろうと思う。なんでそういうことに気付かずに自分の意思だけ通して生きてきたんだろう…と今は悔やむこともある。
でも悔やんだところで何もない。自分は勤務先で毎回「どんな忙しくても挨拶は丁寧にする」「ご家族が来院された時には患者さん本人の出来事や処置・検査の状況、変化を伝える」「爪切りなど細かいケアはなるべくこまめに行う(家族にとってはご本人が大事にされていると思える)」ということだけは意識して行っていた。たかがそれくらいのことであっても、入院している患者さんの状況をこまめに知りたいと思うご家族からはとても喜ばれた。入院生活は患者さんもご家族も相当ストレスが溜まること。だからこそ入院生活がマイナスであることを前提として、少しでもプラスに近づけるようになればいいなと思ってケアに努めてきた。
今後もう一度何かしら看護業界に挑むことがあると思うけども、その時は振り返ってみた結果を顧みながら、他の人の考えも取り入れたうえでより良いケアを提供していきたいと考えている。
※自身のアウトプットのために綴ったものでもあって、たまたま見てくださった方にはお見苦しい長さであるかもしれません。脳の中に散らばっている言葉をアウトプットする難しさを痛感します。それでも読んでくださった方にはありがとうございます、と伝えたいです。
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