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編むことは力

❝__編み物を、女性たちを家庭に縛りつけ、見えない、対価のない労働存在として忙殺してきた手芸とみなし、女性の抑圧の象徴だと考えるフェミニストもいた。
彼女たちは、編み物が歴史を通じて持ってきた、政治的・革命的エンパワメントという一面に気がついていなかった。
また、編み物が、人間の創造性を示す有効な手段であり続けたことを認めてもいなかった。(中略)
編み物が女性たちを抑圧する手芸である、という考え方が、擁護できないステレオタイプだったということだ。(中略)
編み手たちは針や糸の奴隷にされたわけではなかった。
むしろ逆に、パートナーのためにセーターを、または自分のためにポンチョを編む能力があることは、常に個人のスキルと創造性の表現、自由意志の行使の証明だったのだ。__❞
(『編むことは力』ロレッタ・ナポリオーニ  佐久間裕美子訳)

この手のステレオタイプは、少し前の私にも十分思い当たる節がある。
編み物の体験をいくら掘り起こしても、片手で数えられるほどしかない。学校の授業でマフラーを編んだあの時間は好きだった。けどそれくらい。何とかステッチ、はいまだに覚えられない。
それでも、去年ダーニングを習った時くらいから少しずつ見方も変わり、編み物が癒しの時間になることも学んだ。

わたしは「そこそこの編み手」どころか、「まだまだの編み手」で、編み手と自称することすら気後れする。
少し前までの編み物のイメージは、肩が凝る、間違える、結び目がきたない、完成までに時間がかかる、など個人的な失敗の数々を想起させるため全然明るくなく、「家庭科」の授業で学ぶということもまた、毛嫌いする理由だった。
けれど今振り返ると、当時から私の中でかなりステレオタイプが強く、料理、洗濯、掃除、手芸などの家の中での仕事を、まるっと「抑圧するもの」として捉えていたと思う。

実は自分で編んだマフラーは、今も使い続けている。
その理由は多分、自分で選んだ糸が誰とも被らない糸でオリジナリティを出せたことや、編み物をする僅かな時間だけは日々のストレスから解放されていたことなど、明るい記憶と結びついているから。
気づくのに時間がかかったけれど、そこには創造と癒しの世界があったんですね。

何でも手に入れようと思えば手に入り、大量の生産と廃棄が繰り返され、消費が煽られるシステムの中で、必要なものを自分で作り、メンテナンスするスキルを身につけようとする過程は、社会運動の一部だとこの本から学んだ。

わたしが幼稚園に通っていた頃、教育の一貫で園児が描いた絵を親が刺繍にしてくれた。
わたしが描いた絵は、あろうことか、何色もの色をランダムに塗り重ねた太陽。無邪気な子どもの無茶振りに、さぞ頭を抱えたことでしょう。
母は、重ねた色の順序まで正確に、刺繍を仕上げました。

出産を機にキャリアを中断し、子育てに費やした時間の中で、違う色の糸を集め、何時間も費やしてカオスな絵を読み解き、手の中に秩序を編みだす時間の流れを、母はどんな思いで過ごしていたでしょうか。
その時間の中に豊かさがあったことを願うだけでなく、キャリアの中断によって経済的自立が失われ家事育児介護のほとんどを一手に引き受ける姿を見てきたために、わたしの中には社会の構造に対する怒りがあります。
けれどその怒りのベクトルを誤ったために、料理、洗濯、掃除、裁縫などあらゆる家事への嫌悪感、忌避感を募らせ、価値を曇らせていました。

女性を家の中に閉じ込める制度や政策を変えないまま、仕事も家事もこなす女性像や母親像を美化する風潮には今後も乗らないし、そうした風潮が見えなくしてきた構造上の差別にはおかしいと言い続ける。同時に、私の中のステレオタイプは崩れ、家事の技術には生きる力が宿ると、信じています。
何だか話が大きくなりました。

わたし自身は「まだまだの編み手」以前だけど、編み物が経済的・精神的自立の可能性を与える手段であると知れたことは大きかった。編むことは表現方法の一つであり、表現なくしては生きていけない。ほんのひとときでも抑圧から解放されたい時に、編み物を知っておくことは確かな救いです。

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