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土地を持たぬ者の自由とprecarity
土地を巡るあれこれについて、最近方々で聞いていると、つくづく、不安定な土台の上に生活があるのだと思う。
土地を持つかどうか、権原のあるなし、そことそこがつながんの?!という見えない人間相関図、関係性の濃度。
全てが渦になり、そこに何かアクションを足すことはできても、当初の計画が思い通りに運ぶとも、計画通りにこの先続くとも限らない。
土地を持たない自由さもある一方で、土地を借りたり事業を興したり、生活も仕事も円滑に動いているように見えていても、全てはコントロールできる、みたいな新自由主義的自己とはかけ離れている現実があり、常に≪precarity≫(不安定な状況)が、あると思う。
こうして憩いの場がまた一つ、無くなってしまうと思うと、これ以上言葉が出ない。
年末で閉店すると聞いて、食べ納めのつもりで立ち寄ったら、程よく気さくで落ち着いた掛け合いとともに、昔馴染みだとすぐに分かるような人々が、それぞれの締めくくりを迎えに、入れ替わり立ち替わりやって来た。
千客万来。労わって、惜しまれて。
別れの時間には、一瞬の無駄もない。
最後に来たお客さんは、最寄り駅から電話をかけてきて、ちょうど良いバスがなくて、時間ギリギリにやってきた。
...にしては、落ち着いた居住まい。気心知れた関係みたい。
それでいて、良い塩梅の抑揚で、「ビール飲む?」って声かけて、しばらくしてビールの香りが漂ってきて、その後もテンポよく、「おつまみ代わりに」と野菜の盛り皿、特別に小さなカレーの器、名物のプーリーとご飯が運ばれてきて、その人もただ一言「ありがとう」と深々と言い切って応える。シャッター音がして、最後の食事を写真に収めたんだなぁと思って、ここまで来るとリアル深夜食堂...と思いつつ、一連の会話がじーんと心地よくて、尚のこと離れがたかった。