庭の金木犀

十月も半ばを過ぎて自転車に乗る夜は冷たい風に負けそうになります。街中には長袖の人も増えて季節の変化が感じられます。この季節になると金木犀が香ります。ほかの季節には気づかないものですが、本当にいたるところに金木犀は植えられています。日常の会話やインターネットでもその香りについて人が話すのをよく見かけるようになりました。金木犀の匂いについて話している人は、その人のこれまでの人生の中に金木犀の匂いを知ったタイミングがあるはずで、その時点から細く長く続く因果の糸が今のその人の金木犀についての会話につながっていると思うと不思議です。
金木犀で思い出すのは、小学生のころの記憶です。記憶といっても大したものではなく、そのころに家の庭に金木犀が植えられたというだけのことです。それでも殺風景だった家の庭に一本、いい匂いの木が植えられた時のあの収まりの良さは、なぜか逆光で写る静止画の記憶とともに印象付けられています。ちょうど母が幼少期から住んでいた古い家を建て替えて数年の時期であったと思います。新しい家に住んでいるというわくわくした感じが徐々に薄れていき、日常になっていく空気に新たな変化を与えたいという親の意図があったのかもしれないなどと思うと面白くもあります。そんなわけで植えられた金木犀は、小学生の僕に密やかな楽しみを与えてくれました。下校して家の前についた後、扉を開けて家に入る前に、庭のほうまで行って金木犀の匂いを嗅いでみるのです。肺いっぱいに空気を吸い込んでみたり、オレンジの花をつついてみたり、そうやって満足したあと家に帰ります。親は共働きでしたので、家にはおばあちゃんが一人いるだけだったり、誰もいなかったりでした。僕はまるで学校から元気に一直線で帰ってきたように全く何食わぬ顔でただいま、といって見せます。おばあちゃんがいるときには歳にしては張りのある声でおかえりと返ってきます。金木犀に立ち寄っていることは僕だけの秘密でした。このことを誰かに打ち明けてしまうことは、存在しない誰かとの約束を破ってしまうことのように感じられました。帰ってすぐダイニングルームに行くとテーブルの上にお菓子の入ったプラスチックのお皿が二つ並べてあります。お母さんが用意してくれた今日の分のお菓子です。二つあるのは僕と三つ下の弟の分です。そのころは大体弟のほうが早く帰っていたので、もう一つはすでに空になっていることがほとんどでした。そのように記憶しているだけかもしれませんが、弟は習い事や遊びで僕が帰った時点ではもう家にいないことが多かったように思います。お皿の横には時によってはチラシの裏側にボールペンで書かれた置手紙があり、母のテンションの高い文章に恥ずかしさを感じながらお菓子を食べたりしました。夕暮れの家は照明をつけなければ薄暗いくらいだったのですが、僕は暗いままで過ごすのが好きで、お出かけから帰ってきたおばあちゃんに「暗いよ電気つけなさい」と明かりをつけられてしまうことがしばしばありました。お菓子を食べた後、友達との約束がない日は図書館で借りてきた本を読んだり、Eテレを見たりして過ごしました。こうやって書いていると寂しい感じがしますが、その時の僕は寂しさよりも一人でいられる自由を喜んでいたように思います。それはあと一、二時間もすればみんなが帰ってくるという安心感があってこそのことだったのでしょう。家族が帰ってくると夕飯、お風呂、就寝とたちまちのうちに時間が過ぎていきます。夜の家は一人の夕方と違う世界なのではないかと思うほど騒々しくなります。一人暮らしが一年以上になった今では、その温かさがリビングの暖色照明と響きあって思い出されます。
その一人の夕方の記憶はレースカーテン越しに見える金木犀のシルエットの形をしています。お菓子がおかれたテーブルには僕の定位置があり、そこに座った時ちょうど目の前の窓にその金木犀が見えました。お菓子を食べながら、薄暗くなる夕暮れに浮かび上がる影絵のようなその木を、僕は無意識に眺めていたのでしょう。それゆえに金木犀は僕にとって今でも一人きりの記憶です。


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