星ではなく飛行機だった。高速道路の走行音が騒がしい海の音に聞こえる。空洞に吹き抜ける風が過ぎて秋だった。鯨みたい、と指さすので見てみると、酔った若者のグループから昇る花火の煙がたしかに鯨に似ていた。誰かが振り回したハンドライトが一瞬鯨を照らして過ぎていく。その光景は手術台を思い起こさせた。缶を握ると視界ごと潰れるみたいにうるさかった。回転音とライトが横切っていった。小さい赤信号をじっと眺めるような違和感がする。足裏からだった。靴に小石みたいなものが入っているのだと思った。秋だ
三個くらいあるんですが、一つも言いません。伝えられたらと思うのですが、違う可能性に賭けてみます。過ぎていくものがあるじゃないですか、景色、雑踏、雑音、会話。散歩していると過ぎていくものがある。あるいは音楽でもいい。過ぎていく、そして近づいてくる。ただこの移動、際限のない移動。それが何か別の流れみたいなものを生み出して、そこへ溶け込んでいる時、その時の恍惚と言ったら無い。最近ですが対流の末に表になった部分があって、突然のxに容赦なく摩擦する。この時、たとえば思考を尖った塔の形状
書店に行って歌集を買った。 近頃、社会性のある立場を任せられていることもあってか、己の発露というよりは構造と構造の空隙を埋めるような身のこなしが多くなり、自分のなかの極めて個別的な世界への真摯さが欠けてきていると思っていたところだった。あちこちに雑草が生え、川は氾濫を起こし、地下水の強引な引き上げで地盤沈下を起こしている私の王国を再建するべく、書店に足を運んだ。書店には本が沢山ある。一生読むことのないだろうあまりにも多くの本を横切って私は読みたい本を手に取る。書店の中にあるこ
古本まつりにいきました。 寺の境内にいくつものテントが建てられ、その屋根の下、はみ出て外に至るまでの古本が、本棚に収められたり、台の上に重ねられたり立てられたりしてずらりと並べられたその様は、過去の陳列、歴史の現前、意味の飽和といった風情で圧巻でした。私は17時に終わるそのまつりに16時から参戦して、終わりも終わりだったのですが、まだ人はたくさんいて、古本に集まる群、群、群は、蜜に群がる蟻さながらで、人間は意味に集まる蟻なのだ、などと心の中でつぶやいてみたりもしました。このよ
寒い夜の光はそうでないときの光に比べ一層綺麗に見えます。何故なのでしょう、光がいつもより遠い所から差している感じがあります。温度というのが重要なのかもしれません。温度は体や湿気や汗に関連していてなんというか物質的です。そういう物質的な温度から切り離されているように思える冷たい光は、より観念的で、遠くから直接内面に差し込んでくるようにも感じられます。だから寒いときに見える光は綺麗なのかもしれません。光と冷たさの関係性に加えて、単純に夜に冷たさが似合うというのもあるでしょう。夜の
十月も半ばを過ぎて自転車に乗る夜は冷たい風に負けそうになります。街中には長袖の人も増えて季節の変化が感じられます。この季節になると金木犀が香ります。ほかの季節には気づかないものですが、本当にいたるところに金木犀は植えられています。日常の会話やインターネットでもその香りについて人が話すのをよく見かけるようになりました。金木犀の匂いについて話している人は、その人のこれまでの人生の中に金木犀の匂いを知ったタイミングがあるはずで、その時点から細く長く続く因果の糸が今のその人の金木犀に
足裏に貝殻が刺さって出血、眩んで夕景が歪む。鱗立った海面が繰り返している。向こうの岬で逆光の釣り人が魚を釣った。海と空の境界線に太陽が滲んでいる。眩しいほどの光だったが、長く直視していたら視界に緑の黒い点が空いた。昔、ハムスターを飼っていた頃があり可愛がっていたのですが、あれをこう手に包んだ時の体温とかこちょこちょと動き回る感じだとかのなんていうんでしょう、動物、動物だ、という感じがとても可哀想で、またそんなことを思う自分がとんでもなく意地悪なのではないかという感じが嫌いでし
天国の人々には記憶力がありません。人々にはこれまでのこともこれからのこともありません。人々は言葉を持ちませんが言葉のない歌で意味を伝え合うことができます。人々の胸からは蔓が伸びており、人々の体に巻き付いております。蔓は日ごとに成長し、人々の体を覆い隠すようになった頃、人々は直立したまま植物となって地面に根を張ります。天国には広い森があり、その奥に静かな泉を有します。ごく稀に泉の周辺の時間が遡行することがありますが、誰にも気づかれることはありません。天国は白を基調としていますが
味わうための文章をゆっくり読むときに頭の中で読み上げられる音声は、自分の声で聞こえるわけではないのですが、自分が発しているのものだという感覚もあって不思議です。その声は声になる前の声といったらよいでしょうか、実際に音声として聞こえるのではなく、「声」というものを想像したときにその想像を中心に回転する様々なものを凝縮したなにかとして表れるように思われます。その声色は読んでいる文章や言葉から立ち昇る独特の触感がそのまま写し取られているような響きを持ちます。適切に響く文章や言葉は軽
この紫陽花はあの紫陽花と違ってなんで青いの、と聞く時、この土がアルカリ性だからだよ、という答えを望んでいるわけではなく、どちらかというと何故じゃあこの土はアルカリ性なのかということが気になるわけで、かといってこの土には石灰が多く含まれるからだとかを知りたかったわけでもなく、私が聞きたかったのは目の前の紫陽花が青くあるこの世界のあり方と、それが私の視界に鮮やかに立ち現れていることへの気の遠くなるような不思議のことなのです。 絶望というのはつまり、いや、果たして絶望という事態を
日が落ちて薄暗くなった坂道を登っていくと徐々に傾斜は緩やかになり、体がじんわり熱った頃、薄暗闇の中に電灯に照らされて青白く浮かび上がった校門が見えました。この時間に高校に入ったことは無かったので、僕は夢を見ているような奇妙な気分になりました。九月の夜の纏わりつくような生ぬるさも手伝ったのかもしれません。校門に近づくと、門の裏に人影が見えました。相手もこちらに気がついたようで、ゆっくりとこちらに体を向けてきます。電灯に浮かびあがったのは体育教師の松本でした。 「こんな時間に
ねぇあの丘の向こうへ行こうよ。あの先には誰も人がいない街があるんだ。でもそこは何もない更地ってわけでもない。ちゃんと公園もあるし、建物も建ってるし、線路も踏切もある。普通の街からある日突然人だけが消えてしまったみたいな街なんだ。そこには大きな書店があってね、死んだ作家の本しか置いてないんだ。かかってる音楽もみんな死んだミュージシャンのやつなんだよ。チャックベリーが陽気にロックンロールを歌ってたりする。その街はずっと夏なんだ。耳を澄ませば遠くで風鈴が鳴るのが聞こえる。夏草が風に
音楽を好きになるたび、分霊箱のように自分の一部がそこに取り残されたままになる。昔聴いていた音楽にふとしたタイミングで再会した時、そんなことを思う。街のBGMとして、あるいはApple Musicのシャッフル再生として、あるいは友達の歌うカラオケとして、不意にその曲は再び姿を見せる。そこに過去の自分が取り残されているのに気がつく。こちらを無感情な目で見つめている。若かったなあ、と成長を感じることはない。過去の自分をそこに発見するのと同時に、ぼくはその時過去のぼく自身になっている
森の中を駆けている。視界の中央から端へと木々が流れ去っていく。私は足で地面を蹴っているのだろうか。それにしては視界の上下がない。風景は滑らかに後方へ落ちていく。あるいは飛行しているのかもしれない。確かに地面を踏み抜く足音が聞こえないようにも思う。聞こえるのは短く鋭い呼吸音と風を切る音、そして重く響くような心拍音、微かな葉の擦れ合う音だけだ。熱った身体は薄く全体に汗を纏っている。風が気持ち良い。私は焦燥を感じている。追われる焦燥か、追う焦燥か。それは判断できない。私は、駆けてい
祭りや事件のように過激な非日常によって日常の座を奪うという強引な方法ではなく、熟練の手品師のような自然さで日常の文脈から「私」をゆっくりと引き剥がす公園のベンチはありがたい。ベンチに座って景色を眺めるわけでもなく眺めるそのときには、日常ではなく自然の時間が流れている。日常の文脈から引き剥がされたことによって、本来的に私を貫いている生と死、自然の文脈があらわになってくる。そういうものを提供してくれる環境はひとによって様々あって、喫茶店だったり、映画が終わった後の人々が立ち去って
パンが死んでいました。車に轢かれて道端に干からびていました。あなたも見ましたか?数ヶ月前に私たちのアパートをうろうろしはじめたあの子です。茶色くて可愛らしい猫ちゃんで、名付けたのは私だったかあなただったかもう忘れてしまいましたが、こんがりと焼けたパンみたいだって名付けたあの子です。アパートの裏の道を少し行ったところでぴくりとも動かなくなっていました。帰り道にそれを見た時、私、怖くなってしまって、その場でうずくまって声をあげて泣いてしまって、これじゃ近所の人の迷惑だって気づいて