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日常と自然

祭りや事件のように過激な非日常によって日常の座を奪うという強引な方法ではなく、熟練の手品師のような自然さで日常の文脈から「私」をゆっくりと引き剥がす公園のベンチはありがたい。ベンチに座って景色を眺めるわけでもなく眺めるそのときには、日常ではなく自然の時間が流れている。日常の文脈から引き剥がされたことによって、本来的に私を貫いている生と死、自然の文脈があらわになってくる。そういうものを提供してくれる環境はひとによって様々あって、喫茶店だったり、映画が終わった後の人々が立ち去っていく映画館であったりする。

日常から剥離している時、知り合いに会いたくないと思う。これは気が合う/合わない、あるいは心を許している/許していないに関わらないことだ。知り合いはどうしようもなく私の日常を背後に背負っていて、もっと大きな文脈に接続されてしまっている時の私にはどうしようも手に負えなくなってしまう。自然の文脈へ日常のすきま風が入ってしまうことに私の心が動揺してしまう。自然へピントを合わせた私の目では、日常がぼやけてしまう。例えば会話をしてみようにも言葉が出てこない。自然における真実というのは、しばしば日常の言語に置き換えようとするときに矛盾を孕んでしまう。こういった矛盾が見えないよう丁寧に言葉にする、もしくは矛盾をなくすために嘘をつくことに疲弊してしまうのだ。

こういう時、全く知らない通行人とはうまく話せる。公園のベンチで「ここ、座ってもいいですか?」と尋ねたその人は私にとって「たまたまベンチを共にし、そしてまたと合わない人」であって、相手もそうであるはずだ。その時相手は、動植物や風、川と同じような自然の一部として目の前に現れる。背後には日常の気配がない。私と相手はゆるやかな無関心でつながっている。そういう場でこそ真実の言葉が交わせるような予感がしてしまう。そこで交わされた会話は、私の「知り合い」がみれば私らしくないと思うかもしれないし、普段の言動と矛盾していると思うかもしれない。しかし、そこでの言葉は日常を超えた自然の中での真実で、私が真摯に言葉を見つけた結果であるように思う。そういう言葉は私の中で特別な重みを持って沈んでいき、日常のほころびで時折り姿を垣間見せる。

日常に身を溶かしているとき、何かに嘘をついているという気分になることがある。あるいは何かを殺しているという気分になる。木を見るときに、それが森の一部であるという声を無視しつづける感覚だ。無視することが社会に求められているのを感じる。きちんと割り切って生活することはもちろん大切であるし、それができる大人は素敵だ。しかし、ある種の深海魚が進化の過程で元々持っていた眼を失ったように、自然への眼差しを取り戻せなくなることに悲しみを感じる。日常と自然への眼差しを同時に持ちつつ、日常の文脈で自然の文脈を適切に隠し通すことが大切なのだと思う。

公園のベンチを立って帰路につく。日常というのも結局は生きるための雑事である。自然と日常は対立的なものではなく、境界は曖昧に溶け合って存在する。選挙カーの喧騒が遠のいて家が見えてくる。家のドアノブに手をかけて今日の夕飯はどうしようかな、と考えはじめたところでこのエッセイを終わりにする。

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