【小説】「青空」
白が二百色あるというのなら、青は一体何百色この世に存在しているのだろうか。
そんな疑問が頭に浮かんだ時、部屋をぐるりと見渡した私の視界には既に幾つかの「青」が映りこ んでいた。ティッシュの箱に、本の表紙に印刷されたタイトル。カーテンやグラスや、ロッカー上にひっそりと置かれたぬいぐるみの飾りにも「青」はいる。
それらの「青」が、全て同じ「青色」か、と言われたら、…… うーん。
「どう思います?先輩。」
「知らねー。興味ねぇよそんなこと。」
可愛い後輩の些細な疑問をばっさりと切り捨て、先輩は変わらず私にちらりとも視線を向けずに真っ白なスケッチブックへと鉛筆を走らせていた。
全く、この先輩は本当に無愛想だ。
「でも確かに、私思うんですよね。お絵描きソフトで、適当に良さそうな色を作った後、もう一度同じような色を作ろうとカラーパレットの上でぐるぐるカーソル動かして、これだ!って思う色作ったはずなのに、あれ、これなんか若干違う色じゃん、みたいなことよく起こるなーって。」
「スポイト使えよ、初心者か。」
「だっていちいちツール切り替えるの、めんどくさいじゃないですかー!」
「カラーパレット開きなおす方が面倒だろ。それにあーいうソフトだと、画面長押しで大抵自動的にスポイトできるようになってるはずだが。」
「えっ、そうなんですか?なんでそんな便利なこと教えてくれないんですかせんぱ~い!」
「情弱乙」
通学バッグから自分のスマホを取り出して、アプリを起動し早速スポイトを試してみる私をよそに、先輩のスケッチブックの上にはもう一つの美術室が描かれていく。
相も変わらず、先輩の模写は綺麗だ。もし色がついてなければ、これが実際に撮られたモノクロ写真だと言えば、十人中十二人は信じてくれるだろう。… と、前先輩を褒める時の文句で使ったら、 冷ややかな視線で睨まれた。悲しいなぁ。
「ところで。」
メソメソと嘘泣きをしていた私に、先輩が、やっぱり視線一つ向けずに声をかけてきた。まあ、先輩のそれは通常運転だから、気にしたところで仕方ない。
私はスマホをバックの中 へとしまい、先輩の方へと近づく。
「来週の学祭用の絵は完成したのか?」
「ギクッ」
サァッ、と冷や汗が流れる。私はそっとバックを掴み、忍び足で美術室を去ろうとした……い人生だったなぁ。
ギシ、と古びた木製の床が無慈悲にも音を鳴らす。小さな音だったはずなのに、私は大きく肩を揺らして歩みを止めてしまった。そして、それと同時に投げかけられたのは、氷で冷やされた冷水のようにキンキンで冷たい先輩の声。
「…… 逃げるな。」
私は、先輩の言葉にまるで操られるかのようにくるりと振り向いた。そして先輩の白いポロシャツの背中へ慌てて言葉を投げる。
「いやっ!テーマは決まってるんです!ちょ、っと…だけ……その……やる気が出てこなくて…… 」
しどろもどろな言い訳は徐々にその声量を下げていってしまったことで私以外聞き取れず、私ももはや理解できない、意味もなせない悲しい嗚咽へと化してしまった。
先輩の大きなため息がやけにはっきりと聞こえる。この先輩の沈黙が、無言の圧力であるということを、私は入部してから今までの一年と半年で嫌というほど理解していた。
「っ、やります!やりますよ~!サボってごめんなさいっ!」 「そうと決めたらさっさとスケッチブック持って座れバカ。」 「はい!私はバカです!バカな私は頑張って、昨日の私がどこにスケッチブックを置いたか、きっちり思い出させていただきます!」
わざとらしく敬礼をしたというのに、やっぱり先輩の視線はスケッチブックに注がれて いる。まあ、先輩のこういう、絵にまっすぐに向き合う姿勢は本当に尊敬しているから。
先輩はアクリル絵の具を取り出して、パレットに色を広げる。片目でそれを見た私は、余計なお世話だと分かっていたとしても、やっぱり声をかけてしまった。
「先輩、それ、茶色ですよ。」
「…… ん、ああ。さんきゅ。」
先輩は、持っていた茶色のチューブと私が持ってきた青色のチューブを取り換える。その時、私は今日、初めて先輩とまともに視線を交わした。先輩の黒くて大きな、でも鋭い目。貴方の目に、この美術室も、窓の外の青空も、……私も、どんなふうに映っているのか、先輩じゃない私にはどうやったってわからない。
「…… 先輩は、色が見えていたいと思いますか。」
そんな私の些細な疑問に、先輩は、その静かな瞳でただ黙って私を見つめ返してくるだけだった。
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