手汗
溶かしながら、零しながら、拭いながら、
そうやって水を扱う様に、彼は私の側にいる。
彼の海に成れやしないとは思うけど、
泡の様に消える事は造作も無い事だと、
透明な私は、空っぽな私の内側で揺れている。
彼が私に滲んで、私は抜き取れずに居るから、
その染みは広がりを増す。
浸かって、その一色に染まり切って、
ヒタヒタに濡れて脆い私を破る彼に、
私の彼が付着するが、彼は今や別の色で、
私の青は濃さを増すばかりだ。
涙に解けた私を小さな瓶に詰めて、
机の角に並べていく日々も、今日で終わりだ。
全てを一つの大きな瓶に詰めて、
水槽と化したそれに夕陽が射す。
茜射す群青に気泡が湧き、まるで夏の様だ。
命を放ち、喪失を形にして、
この実験の収束を見届ける事こそが人生であると、
失敗続きの彼は言っていた気がした。
その彼の手によって、この人生は粉々に散らされ、
漏洩することになる。
誰にも公表しない、秘密の部屋での大惨事は、
公式には当てはまらない。
解けない問題を解こうとする彼の、横顔が恋しい。
手に汗握る死と隣り合わせの駆け引きで、
涙の一滴さえ無闇に零すことの出来ない戦慄が、
二人の間の今にも切れそうな糸に寄りかかっている。
急かしながら、騙しながら、狂いながら、
そうやって人を遇らう様に、彼は私の側にいる。
彼を恋に落とせやしないとは思うけど、
犬の様に仕える事は寧ろ本望だと、
早計な私は、先っぽに私の内側を許している。
彼が私に滲んで、私は抜き取れずに居るから、
その沁みは広がりを増す。
乱れて、その一線を容易に超えて、
クタクタに縒れて脆い私を嗤う彼に、
私の悔いが執着したが、悔いは今や上の空で、
私の恋は惨めに荒むばかりだ。
明日に感けた私を小さな陽で煮詰めて、
心の底で焦げていく日々も、今日で終わりだ。
全てを一つ不確かな言葉に訳して、
台詞と化したそれに嫌気が差す。
また浸る扇情に途方に暮れ、まるで夏の様だ。
脳天を穿ち、喪失を繰り返して、
この一片の消息を読み終える事こそが人生であると、記憶の乏しい彼は言っていた気がした。
その彼の字によって、この人生は幾星霜綴られ、
揺曳する事になる。
誰にも継承しない、孤独な夢での自己暗示は、
常識には当てはまらない。
説けない論題を説こうとする彼の、口癖が恋しい。
手に汗握り詩を寄せ集めた書き置きで、
涙の一滴さえ最早抑えることの出来ない激情が、
二人の間の今にも明けそうな夜に逢いたがっている。