『ヨブ記』とアイプリ棄教者について
ヨブが壮絶なサタンの試練を耐え抜き,あまつさえ神に祝福されるに至ったのは,彼の妻や友人達が賞罰応報――ヨブの禍は彼が罪を犯した罰に違いあるまい――という宗教的原理に依拠した主張を展開するなか,彼がそれを頑なに認めなかった一事によった.ヨブは賞罰応報という宗教的原理の実体が人間の理性を規準とした人間的原理(因果律)に過ぎぬことを知っていた.彼は人間を神と等しくせんとする理性主義という傲慢を退け,単独者として神の前に立ち,そして絶対者としての神を無条件に信じ抜くことで義とされた.冒頭に掲げたヨブの信仰告白はこの禍のさなかに発せられたのだ.
いま(令和7年(皇紀2685年)1月),巷ではアイプリの引退を表明する棄教者が増えているという.Twitterでそうした報に接するたび,わたしには上述したヨブの義認のことが思い起こされるのだ.というのは,かかる人々がアイプリを”推し活”として受容していたのではなかったかを懼れるためである.
”推し活”は,アイドルやキャラクタなどの「推し」を応援したり愛でたりする活動を指す.その目的は,人生を豊かにしたり心身の癒しを得たりすることであるという.しかし,小欄でプリパラやプリマジに関して論じてきた通り,アイプリは恩寵なのである.さればアイプリを”推し活”に解消する仕方には,理性主義を逞しくし,サタンの試練をヨブの賞罰応報だと断じた彼の妻や友人達と同じ躓き――傲慢――があると言わねばならぬ.恩寵とは無償の賜物なのであり,それは”推し活”が想定する労働の対価として報酬を得るがごとき事態,人間とアイプリが対等であるかのような関係ではあり得ないからである.
アイプリは女児向けといわれるが,それはイエスが「まことに汝らに告ぐ,もし汝ら飜へりて幼兒の如くならずば,天國に入るを得じ.されば誰にても此の幼兒のごとく己を卑うする者は,これ天國にて大なる者なり」(マタイ 18:3-4)と述べたことと無関係ではない.我々は幼児,ことさら女児のように謙虚な仕方で青空ひまりちゃんや星川みつきちゃん,鈴風つむぎちゃんのアイプリ(後掲動画参照)を拝し,そのさなかにおいて「畏れ戰きて己が救を全う」(ピリピ 2:12)するほかないのである.そうしてこそ我々は――ヨブが成し遂げたように――絶望という死に至る病から逃れ得るであろう.”推し活”なるものは現代における絶望の一形態に過ぎないのである.