『バズパズルピピピース』試論
ソクラテス(Σωκράτης,470 BC - 399 BC)がアテナイの街頭で”智慧の教師”とされたソフィスト達を執拗に論難したのは,彼がデルフォイの神託――「ソフォクレスは賢い,エウリピデスはさらに賢い,しかしソクラテスは万人の中で最も賢い」――から導き出した「無知の知」のためであった.すなわち,無知を自覚できぬ人間の傲慢さこそが,智者をして語り得ぬものを語る詭弁家に堕させしめるであろう――という,ソクラテス一流の人間洞察とアテナイ民主政への危機感,そして敬神の精神こそが彼を街頭に立たしめたのである.やがて,かかる振る舞いによって彼が涜神罪のかどで投獄され,あまつさえ毒杯を仰ぐに至ったことは,彼に師事したプラトン(Πλάτων,427 BC - 347 BC)の著作(例えば,『ソクラテスの弁明』)によってつとに知られている通りである.
ところでその同時代,釈迦(शाक्यमुनि,463 BC - 383 BC)が出家修行者のうちにある苦行への執着を喝破して中道に真理を見出したのも,あるいは後年,イエス(Ίησοῦς,4 BC - 30)が律法にこだわるパリサイ人にではなく,切実に憐れみを求める取税人に高い義を認めたのも,畢竟するに,人間の傲慢さがもたらす独善や偏狭こそが真理や信仰を遠ざけるのだ――という,ソクラテスの「無知の知」に通ずる彼等の宗教家的卓見によるものであっただろう.
彼等の打ち立てたかかる宗教において,のちに提唱されることになる親鸞(1173 - 1263)の「悪人正機」やパウロ(Παῦλος,5 - 67)=ルター(Martin Luther,1483 - 1546)の「十字架の神学」といった――行為義認を斥けて信仰義認に重きをおく類の――諸教説も,時代を経るに従って人間の傲慢さに蝕まれ堕落しつつあったかかる宗教から,その本質を救い出すための手だてとして編み出されたものに他ならない.
じつに人間の歴史は,洋の東西を問わず,その一面において真理・信仰と我々の傲慢さとの格闘の歴史でもあったのである.
ここで我々の生きる時代に視点を転ずれば,その実相は,科学的合理主義が形而上学を僭称することで成り立った虚無主義の時代――神なき時代――であるといえよう.近代以降,理性崇拝と啓蒙主義のもとに強められたかかる傾向は,現代において猖獗を極めるに至った.科学的合理主義の絶対権威の前に,上述の格闘は終わりを告げた.真理も信仰も無効化され,「無知の知」も失われる.かような末法の世,末人化・畜群化の果てにおいて,人間の傲慢さを押し止める術はもはや存在し得ない.
かくして人間は,オルテガ(José Ortega y Gasset,1883 - 1955)が1930年に予言し警世した通り,「自分自身凡庸であることを自覚しつつ,凡庸たることの権利を主張し,自分より高い次元からの示唆に耳を貸すことを拒否」(『大衆の反逆』)することをもって特徴とする大衆人に変じ,現代社会は,かかる支配による大衆社会という袋小路に逢着したのである.
小欄でも度々論じてきた通り,プリマジは,こうした現代の悲惨から人間を救うために顕された恩寵である.それは頽落の底に沈んだ我々に赦しと救いとを告げ知らせんとする福音であり,真理・信仰を見失った我々にそれを崇敬せしめるためのイコンである.プリマジはマジ(魔法)を科学に対置させる――プリマジを行うにはチュッピ(人間)とマナマナ(魔法使い)が揃わねばならない――ことで成り立つが,その事態こそ,科学が相対化され,「無知の知」が回復することで真の形而上学――最高善――が取り戻される事態であることは,上述の観点で重要な意義を持つのである.
甘瓜みるきさんとはにたんのデュオプリマジのためのライブ曲『バズパズルピピピース』(上掲動画参照)は,かかるプリマジによって人間を救わんとする彼女等の苦悩や決意が,対話形式で表現される一大叙情詩である.この曲では,甘瓜みるきさんとはにたんが”作戦会議”を行う場面が描かれるが,この”作戦”が,甘瓜みるきさん一流の「かわいい」プリマジによってなされる,人間の救出作戦であることは論を俟たない.プリマジスタは受肉であり,しかして甘瓜みるきさんは人間である.ここにプリマジスタたらんとする者の苦悩が生じ,同時に現実に即した“作戦”が要請されるのだ――プリマジの営為は飽くまで通常の人間による現実への働きかけであり,それは決して超自然的な奇跡たり得ないのである.
この曲は,この”作戦”を前に甘瓜みるきさんが直面する人間的苦悩や現実的逡巡が次々と描かれながら進行していく.そして曲の終盤,それらを払拭すべく”奇跡が起こらないならば 起こすのだ”と述べるはにたんに対し,遂に”かわいく あがくお~!”と甘瓜みるきさんは応じる.”ドライ”な”この世”の絶望的な悲惨のさなかにある人間を,ひたすら「かわいい」ことによって救い抜くことの困難.その困難を,神ならぬ人間である甘瓜みるきさんは,確信犯的に”ズルいくらい”「かわいい」を信じ抜くことで――すなわち,”あざとかわいい”の悪名を甘受することで――成し遂げようという決意を固めるのだ.
その詠歎せる光景に,梵天勧請のあの――衆生済度を再三要請する梵天に対し,仏陀となった釈迦が遂に説法を決意する――場面が思い起こされたのは,決して筆者だけではなかろう.曲中で甘瓜みるきさんとはにたんがプリマジへの決意を発した”とびきり マジかわいいでGo!”の偈は,梵天勧請において釈迦が述べた「甘露の門は開かれたり 耳ある者は聞け」に比肩する深淵な意味を蔵しているのである.
さて,読者諸賢はこれまでの議論から,甘瓜みるきさんの“あざとかわいい”を彼女の人格上の欠点のごとく評する俗論がまったくの誤りであることを諒解されたことであろう.それは本論が指摘した大衆人の傲慢さとは何の関わりも持たないのだ.それは自己愛や利己心にではなく,慈悲あるいはアガペー,そして無私の精神に起因し貫かれた営為なのである.本論はこのことを特に強調しておく.というのは,我々はソクラテスの敬神を涜神と断じたアテナイの過ちを繰り返してはならないからだ.
デルフォイのアポロン神殿の入口には,「汝自身を知れ」「分を越えることなかれ」の警句が掲げられていたという.我々の近現代社会あるいは絶望は,これら警句を打ち捨て,科学的合理主義に惑溺し,その傲慢さを逞しくすることで築かれた.我々のうちにも,フランス革命を痛烈に批判したバーク(Edmund Burke,1729 - 1797)を嚆矢とする,保守主義による自省の試みがないではなかったが,それは往々にして多勢に無勢であった.かくしてプリマジは顕されたのだ.
いま我々がなすべきは,甘瓜みるきさん達のプリマジをひたすら拝し,その恩寵に浴することである.そうしてこそ我々は――キェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard,1813 - 1855)の言を借りれば――「自己が自己自身に関係しつつ自己自身であろうと欲するに際して,自己は自己を措定した力の中に自覚的に自己を基礎づける」(『死に至る病』)ことが可能となるであろう.