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自分を大切にすることは、誰かを大切にすること

タイトルのような台詞はよく聞くけど、実際はどういうことなんだろう?と思っていたところに、「あ、そういうことか💡」と感じたことがあったので。

☆★

私は自分を大切にしてこなかったし、大切にする方法を知らなかった。
正直に言うと、今もわかっているようでわかってないのかもしれない。

私は自分がどう見られるかということに凄く敏感。
なぜなら、周りが自分のことをネガティブに言おうもんならガラスのハートがめっちゃ傷つく。そして、「○○って、〜〜〜〜なところあるよね」というような、括りも当たってようが当たってまいが苦手。その「〜〜〜〜」な私でいなければ”いけない”ような気がして。

優しいねとか、しっかりしてるね、とか。
優しくなければ認められない、抜けているところを見せたら馬鹿にされるのではないかと長い間思っていた。(実際はそんなことはない、受容される世界もあると知ったのは数年前。)

だから褒められても、まるで「呪縛が増えた」ようで、嬉しくなかった。笑
指摘は全部悪口を言われているような感覚だった。褒められても指摘されても苦痛だった。だから自分を含めて定義される・することに嫌悪感がすごい。。。(自分の自己肯定感の低さにもつながっているような気がする。)

☆★

で、本題。
「自分を大切にすること」が「誰かを大切にすること」にどうやってつながっていくのか。(ワタシ理論)

ある友達と繁華街に行った時。
恐らく、私の方がこの街にきてる回数は多いのに、
この街のこと全然知らないということに気がついた。

知ってはいる…けど、一人で”適当に”入っているから、今この瞬間に入ったら心地よい店というのがわからない…。
適当な店とは、私にとって最も効率的な店。注文〜提供まで待つことがあまりないようなお店。食べ終わってから余韻に浸ることなんてほぼない。そんなお店ばかり。(こういうお店が悪いわけではない。)

本当はゆっくりしたいのに、何故かセカセカセカセカしてて常に時間に追われる感覚から抜け出せないという自分に気がついた。「本当は自分のことをもっと認めてあげたいし、もっとゆっくり生きていたい。」なのに、私は常に何かに追われて質を忘れてた。

そこで、「あぁ、自分の求めている物を大切にすることで、目の前の誰かを幸せにする選択肢を一つ増やせるんだな」と思った。
良いお店とか知らないなぁって思ってた。確かに「ゆったりできる」良いお店は知らない。でも、効率的なお店はなんとなく雰囲気でわかる!(笑)それは間違いなく私の行動の積み重ねだった。

そして、自分の意思よりも誰かの意思や全体のことが優先される…どう思われるかを気にしている自分の考え方の積み重ねでもあった。

あなたは自分と大切な誰かを大切にできていますか?🌹

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