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忘却とラベンダー

 ある、使用人が陽光を楽しむために海へ出払っていた初夏があり、それはまだ人に花を贈るということを知らない日々だった。夏の夜という浅い眠りで薄靄に浸っていた街が目を覚ましても、塀とその奥に広がる植物園を超えて私の屋敷に朝が届くまで、しばらくかかる。青い光だけが一足早く窓枠の隙間から室内に入って絨毯に落ちる間もなく霧散する朝まだきには、着替えて身支度を済ませる必要がある。私は世間で言うところの労働についている階級ではないが、働く必要がなくても世の中の動きを知るために新聞くらいは読んでおいた方が良く、屋敷に誰もいない期間は新聞をとりに行かなくてはいけなかった。応接室の中央にある階段を降り鍵のかかった扉を開けて、植物園に続く石段を降りていく。
 早朝だというのに空は暗灰色の雲に覆われ、庭園の地面に敷かれた細かな黄色い砂利は靄を吸収して柔らかく足音も響かない。遊歩道を進むと低木が小さな花をつけ、その脇に一塊の花が赤や桃色、白の花を咲かせているいつもの風景が続く。大きな木が枝を高く張り出している塀の脇に、小さな名札が下がっているのをなんとはなしに眺めながら歩んでいく。流れるような筆記体で白い木片に樫、と書きつけられた名札は紐で木の幹に結ばれていて、少し斜めに傾いている。道なりに樫の木へ近づくにつれて、雨風にさらされた名札の文字が目に入る。濃茶色をした園芸用の撥水インクで刻まれた文字は父のものだ。十数年前のこの冬、脚立で剪定をしていた父は足を滑らし首の骨を折ってこの世を去った。以来私のものになった植物園は、かつての主人の面影を今でもそこかしこに忍ばせている。手製の木や花の名前を書きつけた名札や木でできた小さな日時計など、そんな遺物たちが緑の園を醒めない眠りに留めているのだ。そして現在屋敷を所有している私はというと、父の墓参りも何度か行ったきりで物心つく前に亡くなったと聞かされている母の色褪せた肖像画も埃がかぶるままにして、かと言って世間との付き合いも例外的な一人を除いて全くなく、毎日無為に過ごしているのだった。
 新聞受けは、いつも通りそこにあった。いつも通りでなかったのは、銅製の新聞受けの足元で咲いていた勿忘草の場所だ。ごく淡い青紫色をした五弁の花びらを数十ほど、桃色の混じったつぼみも混えて猫の背くらいの位置でこちらに向けていた。そこにあったのは確かに穴で、あの小さな花はどこに行ったのだろう、と不思議な気持ちになった。そして、どうして土が湿った部分まで地上に見せているのか、野良猫の目を掻い潜って野兎が掘り返したにしても、野兎の好みに合うとは思えない、などなど考えながら新聞を開き、数歩読みながら進んだ。だが足はそこで止まって、急いで郵便受けが無言で立つところまで戻ると、なぜ気がつかなかったのか、穴の底で途中でちぎられた勿忘草の根がこちらを見上げていて、うっすらと足跡もそこかしこに残されている。屋敷に他の人間はいないにも関わらず。自分の物を盗まれるという感じを、私はそれまで知らなかったので、屋敷に戻ってから部屋の中を意味もなくうろつき、長い間気分がすぐれなかった。
 霧が晴れると共に盗みが晒されたその朝の次の次に屋敷の外にでたのは、黒檀の杖をついた婦人が扉の前に訪れた時だった。渋い紫色の肩掛けを羽織り直して、扉から杖を下ろした先生は顔中を皺にする。
「そんなに叩くと、杖が折れてしまいますよ」
「平気よ。それより、入っても構わないかしら。待ちくたびれたわ」
 屋根裏で探し物をしていたので、と侘びながら一番近くにあり、それでいて一番窓の大きい応接室を開ける。
 
「花盗人を責めてはいけない」
 勿忘草の話を聞いて、先生はそう言った。ソファに浅く座った膝の上で、黒いレース糸の手提げに何かを探している。彼女を一瞥して、注ぎ終えた湯気の立つ紅茶を茶菓子と勧める。
「確かにそうですが、そいつは泥棒に変わりはない」
「昔の人はいいことを言ったもの。美しい花を手に入れたいと思うのは、人の心です」
「わかっています。私は別に、盗人を責めているわけじゃありません。償わせるんです。家の庭を荒らしたんですから」
 ようやく手提げから金のツルのメガネを取り出して、小さな鼻にひっかけると先生はこちらを見る。向かいのソファに座わりそれを眺めていると、犬に追いかけられて泣きながら帰ってきた日の先生のことが思い出された。事件があってから袖口に現れた心因性の発疹に彼女の視線を感じながら、私は紅茶を飲み、彼女も続き、器を置く。
「警察はなんて」
「まあ、見回りを強化します、とは言っていましたね」
 詭弁だ。保身だ。警察に電話をしたあの朝、彼らはやってきて現場を少し見聞してはああだこうだと歩き回り、庭を見回し手入れが大変そうだなどと見当違いのことを言って、被害届を受理すると街へ帰って行った。長い間使われていなかった、色褪せた被害届が警察署の奥深くの棚で紙挟みに綴じられて埃をかぶり永久に取り出されることがないのはわかっている。一見凶悪ではない軽犯罪を、彼らはこう言って見過ごすのだ。子供のいたずらかもしれませんね。
「誰のいたずらだろうと、必ず捕まえる。これは挑戦だ」
 立ち上がり、部屋を行ったり来たりしながら策に考えを巡らせる皿から茶菓子が取られる音がして、それからもう一度茶器が受け皿に置かれる音がする。
「あなた、最近評判が良くないわ」
 振り返ると、先生は眼鏡を直して遠くを見ている。緑の瞳の縁がぼやけるように遠くを見る。窓の向こう、庭も通り越した向こうにあるのは、父の眠る墓地だ。今は墓地管理人が、芝を刈ったりごみを拾ったりしているだろう。                                                                                  
 子供部屋で彩り豊かな飾り絵のついた本を開いて先生に読み書きを習っていた午後のことだったと思うが、何かいるものはないかだの、使用人たちの行き来する音がうるさすぎないかだのと用をつくっては扉を細く開けて顔を覗かせる父を、にこやかな表情と言葉とは裏腹に、鋭い眼差しで追い返すのが先生の常だった。あの日とはどこか様子が違う先生の眼差しは、何かに思いを巡らして、しばらく宙を漂ってから不意に私の方に向けられた。ソファの上で居心地悪く居住まいを正し咳払いしてから、手を振って視線を逃れる。
「過激なことはしませんよ。心配いりません」
「人は見ているわよ。いつも街を見下ろしてきた、この館のことを」
「大丈夫です、先生」
 空を占めていた雲間に太陽が顔を出し、敷き詰められた紅色の絨毯が空気を暖めていた部屋は一層暖かさを増した。内向きに窓を開けると清廉な陽光が窓辺に座る私たちの足元を照らしたが、なんとも言えないわだかまりが当たりを漂っている。
「とにかく、なんとかします。そのための方法もいくつか考えています」
 いくつかというのは口から出たでまかせで、実際はようやく思いついた一つのやり方を先ほどまで屋根裏で試していたにすぎなかったが、埃だらけの屋根裏、と思い出したところで話題を変える口実が浮かび思わず表情がほころぶ。
「話は変わりますが、今度蔵書を刷新しようと思っていたんです。以前見てもらった時から何も変わっていませんよ、あの図書室は。歴代の家系図なんかが隅で紙束同然になって」
「そうなの、それで?」
「そこで、先生の意見を聞きたいと思っていたんです。どの本を残すか、目録を今お渡ししますね」
 先生が居住まいを正したのを背に感じながら部屋を出て、目当てのものとすぐに部屋に戻る。
「先代の先代が好んで読んでいた倫理学ね、ぼろぼろで修復しようがないなら、もういいでしょう。それから、北の学都で書かれた哲学書、あれは良いという噂、読むに値する本です。今後もね」
 インク壺にペン先を浸して本の題名と作者の名を先生が書いていくのに、素直そうにうなずきながら、これからもこのように物事を運んでいくのだと、どこか虚しさを覚え、彼女を気の毒に思う。花泥棒の所業に先生にとって思わしくない結果を与え、それを知らせることがないだろうことや、今後この屋敷が新たな子孫へ引き継がれることはなく、先生が選書している努力の甲斐もないだろうということが、いかんともしがたい申し訳なさを生んだ。窓の外はいつの間にか曇り始め、霧雨が降り始めているささやかな音が聞こえてきた。
「それでは、また会いましょう」
「はい、また来月にお待ちしています」
 先生の杖が玄関の階段を注意深く叩いて、植物園の小径を色褪せたステンドグラスのような夕陽の中遠ざかって行くのを見送る。遠くに門が閉まる音が聞こえるか聞こえないかのところで中に引き返し、先生が来訪する前にいた場所へ戻る。
 一度落ち着いた埃をもう一度舞上げながら、屋根裏に積まれた大小様々の箱を降ろしたり厳重な紐をほどいたりしていくうちに、それが見つかった。乾燥し切った安い木材を組んだ箱に古い蝋紙でごく簡単に包まれている。紙をどけて木でできた表面や金属の長い糸がまだ使えるかを軽く引っ張り確認する。古くなった金属に特有の尖った匂いがするが、大きな故障は見当たらなかったので箱ごと階下の植木職人が道具などをしまっている小部屋へ運ぶ。あとはこれをしかるべき所に設置するだけでいい、安心したおかげか、その夜は心配事もなく深い眠りにつくことができた。
 次の朝を迎え、屋根裏から出してきた警報器を樫の木に取り付けようと庭に出る。錆の浮いた脚立を使って苦戦する私を、ここら辺を縄張りにしている斑の猫が横目に通り過ぎていく。ささやかな風が止み日差しが増して、右斜めに離れたところにある東屋のタイルを煌めかせる。花泥棒が引っかかるよう長い糸を壁の近くに張り巡らせ幹に針金を回してねじると、警報器は少し重みで傾いたものの落ちることはなさそうだ。自分の仕事に一旦満足して額に汗がにじむのを感じながら足早に草木の間を屋敷へ戻ったが、その後は何度も警報器の辺りを見やって過ごした。何も知らず花泥棒が現れるのが、楽しみで仕方ない。
 結局、警報器が鳴ったのは取り付けた朝から一週間ほどの深夜だった。階上の寝室で、奇妙な夢の中にいた私は若い頃の父に連れられて庭を巡っている最中だった。種々雑多な植物たちに夢中になっていた私は、父にこの花やあの木はなんという名前か質問するのだったが、返事は返ってこないのだった。警報器のベルで目を覚ました瞬間も、頭におかしな夢を見た後の気だるさが付きまとっていたが、鋭く金属を叩く音は、瞬時に何が起こっているか私に知らせる。寝台から飛び降り、部屋を出て廊下を走り、月明かりが照らす階段を一段飛ばしに降りる。扉に衝突するように鍵を開けると、目の前には夜の庭園が四隅の塀を夜に溶かして、草木を揺らす静かな風が頬を打つ。けたたましく鳥が鳴くような警報音が続く方へ走る。警報器を取り付けた、樫の木だ。花泥棒が仕掛けの糸に引っかかり警報器を作動させたのは目論見通りだったが、事が夜に起きて、泥棒が逃げようとする現場まで一人で走らなければならないことは想定から抜け落ちていた。月が笑うように照らす中、ラベンダー畑を駆け抜ける。砂利道に飛び出たラベンダーの茎や葉が足元を湿らせる。朝露だ、夜明けが近いのだ。
 息切れがしたので十分塀に近づいたと思うところで立ち止まり、目を凝らすと先に動く影がある。全身の毛が逆立つようになるが花泥棒にちがいなく、体格からして男だろうと思われた。丁度、樫の枝に顔を隠されながら侵入者は塀にまたがり脚立らしきものを引き上げているところだ。待て、と声をかけるが、脚立と男は塀の向こうに消えていく。むしろ、声を聞いた事で逃げる手を早めさせてしまったのか、塀にたどり着いた時にはツタ壁の向こう側で脚立をひきずる足音が街の静寂の中、遠ざかっていくところだった。なすすべもなく、レンガ塀を手づたいで進むうちに、平静さが戻ってくる。男が脚立と一緒に飛び降りた場所へ戻ると、地面が掘り返されている。地面に空いた虚な穴を見るまでもなく、何が起きたかは予想がついていた。そこにあったのはシオンという薄紫の可憐な花で、植えた父の特別のお気に入りだった。二度の強奪を許した失意で足取りは重く、しかし足早に屋敷へ戻ったのは、次なる反撃の手を打つためだ。その日、私は夜明けと共に出かけた。
 屋敷が立っている小高い丘を下って少し行ったところにある石造の交番で、花泥棒についての話を聞いた警察の反応は鈍かった。しかつめらしい表情の下で制帽に隠した親指同士をくるくると回しているのは明らかだったので、咳払いで仕切り直してから、以前伝えた後に再び花が消え、常習性があることを念押しして形ばかり調書をとるのを見届けてから来た道を引き返す。帳面を緩慢に行き来するペンから、警察に期待はできなかったが二回目の通報をしたのは念のためで、本格的な反撃はこれからだ。庭師の部屋の奥に立てかけてあった長い箱を、埃が舞う中引き摺り出す。庭に面するテラスは、曇天を漂う雨雲の影を受けていつになく不穏な空気がが漂っている。長い箱を開けて、パラソルを置いてあった丸テーブルに立て椅子を引きよせ、庭の監視をする準備は整った。来週に先生と約束をした、蔵書の整理が近かったのでテーブルの埃を払い目録の束を乗せ、表題を一つずつ確認していく。ペンを持つ手元の発疹は、花泥棒が出てから治る気配はなく、薄赤い円が甲一体に広がって進んでいるが気分はむしろ悪くなかった。雨の気配を感じながら、涼しい風の中で目録と向き合い、注意は常に庭の方へ向ける。花泥棒を見張るには最適な場所で作業をし片手間に見張りを続ける。
 その男が現れたのは、御影石の足元に一粒の雨が落ちた時だった。埃に塗れた時代錯誤な服装で、垣根と垣根の間からぼさぼさの頭をのぞかせたと思ったら、そのままうろつきだす。背格好から、昨晩見た花泥棒ではないことは明らかだが、無断の侵入を放っておくわけにはいかない。おい、と声をかければ驚いてこちらを見るが逃げるどころか向かってきて一礼をすると、くしゃくしゃにもつれた頭から、先ほどまで地面に寝転んでいたのだろう、砂粒がいくつも転がり落ちる。
「何者だ」
「あえて言うなら、僕は詩を書いている」
「詩? どんな詩だ」
「迷い猫探しには田園詩、恋文の代筆には物語詩、寡婦には悲哀詩」
 街が都市化していくにつれて、いろいろな仕事ができた。この男も新しい職業者で、胡散臭いが例に漏れず深刻な法は犯さないし、花は盗むよりなけなしの金で買って愛でる浮人だ。
「ここで何をしている」
「詩作に耽っていたら。迷い込んでしまって」
「そうだったのか」
 口の端に笑顔を添えて私は庭園の裏口を示したが、詩人がところで、と口を開く。
「ここだろうか。花泥棒に目をつけられた庭というのは」
 思わず足の重心を左に移して、真正面に向き合う。
「どうして分かる」
「警察が談笑していたところに通りがかって」
 雨は霧雨に変わっていたが奇妙な天気で、植物の成長にふさわしい柔らかな光が雨と降りそそいでいたが吹く風には一筋の冷たさが感じられた。
「どうだろう」
 詩人が人差し指を立てて唱える。
「僕を雇うというのは」
 突然の提案につい考えてしまうが、四六時中パラソルの下で見張ることを考えると、警備を雇うというのは悪くない考えに思える。テーブルまで戻って椅子に座り、そばにあったもう一つの椅子を引く。
「必ず捕まえてくれるなら」
 こうして、詩人は屋敷に出入りを許された。その後、庭を後ろに手を組みながら独り言を呟いて花壇に足を突っ込んだり、昼夜問わず徘徊するお陰で早朝に東屋でうたた寝をしていたりするところを見かけると、疑問もあったが花泥棒はあれ以来姿を見せず、庭を守るという点では少なくとも意味はあるようだった。そうこうするうちに先生と約束した蔵書の整理日が近づき、天気はすぐれなかったものの右手の湿疹も治りを見せていた事で、当日の気分は好調だった。先生の杖がいつもの通り玄関の扉を叩く音を聞きながら、前回よりも元気がないのはきっと今日が絶妙な曇りで右手のリウマチが悪化したのだなどと考え、準備していた茶器を適当な場所に置いて迎えに行く。先生のリウマチとは対称に、私の右手に広がっていた湿疹は癒えつつあり、この日のための掃除や料理が順調に進んでいることもあっていつもより笑顔で先生を迎える。いつものように黒い帽子を被った先生は少し驚いた様子で、それでも私について書斎へ向かい、途中で踊り場の窓から詩人が庭を横断しながらこちらへ手を振るのを不思議そうに見る。私も詩人に手を挙げて応じ、警察に行った後のことですが、と先生にことの経緯を話す。庭の方は詩人に任せておけばいい。
「それでは、ひとまず安心なのね」
本棚の前の低い脚立に乗った先生は、琥珀色に焼けた糸でとまっているだけの本をこちらに差し向ける。何度も読み返され、やがて内容が時代遅れになり打ち捨てられた紙の束を受け取りながら、それを処分する本の山に置き私はええ、と返す。
「いつまでいるか分かりませんが、今のところ有能なやつですよ」
 本棚に向き直り、もう一度こちらを振り返った先生の顔に深くて長い皺が一度に集まっていたので、彼女の笑顔を見るのは久しぶりということに驚く。
「人と打ち解けることは大事です」
 あなたは優しいから大丈夫、そう付け加える先生が持たせた含みが様々なことは察せられたし、それを素直に受け取ることができそうなほど屋敷は古い写真の色に似た光に満ちていた。書架の一部を選別しただけで処分する書物の山が積み上がったので、階下へ運ぶ必要が出て、その間先生には腰掛けていてもらうことにする。玄関の一番広くなっている場所に本を積み上げるために何度か往復していると、詩人が扉の向こうから顔を覗かせる。しつこく猫を追いかけたのか、袖に見えるか見えないかのところに引っ掻き傷がある。
「庭の様子は」
「問題ないよ」
あくびをしながらいう詩人を傍目に、ホールの中央に敷いた大きな麻布の上に本の塊を置くと、塵と埃が立ち上がり夕日に煌めき、詩人の瞳が本の題名を目で追うように動く。
「興味があるなら自由に読んで良い」
 私は理由もなく良い気分でその場を立ち去った。庭園に放置してあった防犯装置が鳴ったのは、夕暮れが少しづつ暗さを増してきた時間帯だった。驚いて小さな声を上げる先生と図書室にいた私は、棚を拭いていた布を投げ出し、窓辺に駆け寄る。見覚えのある脚立が防犯装置の張り巡らした糸に絡まって倒れている。いつもより出没が早いので、紫の薄闇の中で花泥棒の労働者らしいよれた服装、目深にかぶった帽子についた煤の汚れまで目に入る。玄関にいるはずの詩人は本を読み耽っているのだろうか、まだ現れない。先生が隣に来て、泥棒が屋敷に一番近い花壇の前で立ち止まるのを一緒に見る間も、詩人は依然として姿を見せない。泥棒が花壇にしゃがみ込んだところで窓辺を離れ、走って階下に向かう。玄関の開け放たれた扉の前に積み上げた本の山の近くに詩人の足が投げ出されていて、本を顔に被せて眠りこけているのが判る。花泥棒は屋敷のすぐそばで花を掘っているところだろう、今なら捕まえることができる、と私は床に伸びた詩人の足を飛び越そうとする。その足元で詩人が寝返りを打って大きく伸びをしたので思わず私は足を取られて本の山に頭から突っ込む。冷たい床に打ちつけた頭をようやく持ち上げて見えたのは、花壇の中に小さくなっていく花泥棒の背中だった。
 塀をよじ登って逃げたのだろう、花泥棒の相方である脚立が雨の降り始めた小径に打ち捨てられている。つい先ほど花泥棒がしゃがみ込んだ場所にはストケシアの青い花びらが淡く風に揺れていたのだが、今ではそこに荒く掘り返された跡だけが残っている。見下ろしているうちに、右手に痛みを感じ、何かと思うと赤みを帯びた皮膚に湿疹が広がりつつあり、気がつくと頬が震えていた。徹夜明けの読書は眠くなるな、と頭をかきながらやってくる詩人の方へ、怒りを隠すつもりもなく早足で向かう。
「手当たり次第というわけではないのか」
 土の周りを眺めている詩人の襟首を掴み、引っ張っていく。
「大丈夫?」
 先生が戸口に現れたので、蹴り飛ばしたい気持ちをこらえて代わりに庭の門まで抵抗する役立たずを引きずっていく。
「次に姿を見せたら、警察を呼ぶ」
 閂を閉め、足を引きずりながら屋敷へ戻ると、どうしても犯行現場が目に入り奪われた花に思いが至る。ささやかに咲いていた可憐な花に特別愛着があったわけではないが、平穏な日常の一部だったので、突然に奪われた悲しみは言いようがない。

 数日屋敷に引きこもったが、その間庭の手入れをすることもなく、荒れるままに任せているのは、私なりの主張だ。盗みたければご自由にどうぞ、という暗喩だ。空気を入れ替えるために久しぶりに窓を開け、庭を見下ろすが、よく晴れた今日の空のように希望がどこにもないわけではなかった。数日もすれば使用人が屋敷に戻る、要は庭師も戻るということで、花泥棒は人気を恐れて庭に近づくことはなくなるだろう。それは確かに希望ではあったが、同時に花泥棒がどこの誰か、動機は何か、永遠にわからなくなるということでもある。やり場のない気持ちで風に靡く庭の草花を見ていると、遠くの塀をよじ登り、詩人が敷地に入ってきた。小径をあちこち歩き回って花の周りを回り、頷いている元へ、急いで屋敷を出て早足で駆けつける。
「次に盗まれる花がわかったよ」
 詩人の足元で、青紫の小さな花がさいているが、それはリモニウムという名で詩人はその花に目を落として懐から取り出した表紙の剥がれた本を開く。
「花言葉だよ」

  彼は古本をめくるが、それは処分するために積み上げた古本の山の一冊だ。
 『世界の花詞』と印刷された金の文字が消えかかっている。
 詩人は読み上げた。今まで花泥棒が盗み出した花たちと、それらが持つ言葉を。
 「まず、ワスレナグサは『私を忘れないで』。次に、シオンは『貴方を忘れない』。そしてストケシアは『追想』」
 最後にリモニウムは、と言ってよこした本を私は読む。
 「『途絶えぬ記憶』」
 「盗まれたのは思い出に関係する花ばかりだ。だからこのリモニウムが次の標的と分かるのさ。他にはもう、思い出を意味する花はないからね」
 私は本を地面に置く。風が本をめくる。

 私と詩人はリモニウムの周りで寝ずの番をすることに決めた。幸い近くに東屋があった。
 夕方になって屋根の下に入る。毛布にくるまり、犯人が現れるのを待つ。
 プラムの実を食べにくるカケスが鳴いた。この辺りを統治する大きな猫が横切った。初夏とはいえまだ夜は寒い。毛布を強く握る。詩人は何か呟きながら小さな紙に新作を書きつけている。暇つぶしに本をめくり花詞に目を通す。見覚えのある花の名前が連なる。私の庭に咲く花たちだ。
 犯人は八時過ぎに現れた。塀に兆候が現れた。柔らかいものが塀に当たる音がする。そちらを見ると縄梯子が塀から垂れていた。前回置いて逃げて行った脚立の代わりだ。犯人が塀を降り、近づいてくる。若い痩せた男だった。手には懐中電灯を持っている。犯行に必要な道具というわけだ。男はリモニウムの花壇に踏み入っていく。数秒、花の前で立ち止まる。確めているのだろう。そして男はしゃがみ、地面に手を突っ込んだ。柔らかい土は簡単に花を傾けた。詩人の方が早かった。東屋を出て花泥棒の方へ向かって行く。花泥棒はこちらを振り返る。状況を把握したらしい。はじかれたように走り出す。塀まで二十七ヤードある。詩人が俊足なことを私は知らなかった。花泥棒に追いつき捕まえかける。だが泥棒は上着を脱ぎ、それを投げつけた。詩人は不意を突かれ一瞬立ち止まる。花泥棒は近道をするためにミント畑に踏み入った。踏み荒らされてミントの香りが漂う。
 花壇に入られてかっとなった私はそばにあった中型の日時計を拾って投げる。当たり所が悪くても死にはしない。日時計は夜空に弧を描き飛ぶ。花盗人の頭に当たった。驚いて地面に均衡を崩す。詩人が追いついて泥棒の肩を叩き、やれやれ、と笑う。速足で近付き私は花泥棒を立たせた。顔を一瞥する。出血はない。人生に絶望した顔をしている。現行犯逮捕のせいではない。若いうちはとかく人生に絶望しがちだし、町はこういった人間で溢れている。
 「一連の花泥棒はお前か」
 そうです。若者は言い逃れしなかった。警官を呼べ、という私を詩人は諫める。警官はろくに訳も聞かず軽犯罪として処理するだけだ。理由を聞こうじゃないか。どちらにせよ派出所へ行くには上着が要る。私は花泥棒を屋敷に入れた。書斎に彼を座らせて話を聞く。

 彼は町工場の労働者だ。妻と二人で暮らしている。この町の出身ではなく、遠い田舎町から妻と来た。妻の家は豪商で、彼はその屋敷に出入りする御用聞きだった。初めはお互い何の感情も抱かなかった。しかし年を重ねるにつれて親密になり、惹かれあった。二人が結ばれるには駆け落ちという道しかなかった。新しい土地に移り住み生活を安定させるために働いた。長いこと二人は働き詰めだったが幸せだった。何しろ妻は新しい命を宿していた。そんなある日妻が倒れた。過労による脳の病気、というのが医者の診断だ。若年性健忘症は記憶をむしばむ虫だ。些細な事に始まり大切な事に至るまで全てを忘れていく。日に日に記憶が薄れていくのだ。初めに消えたのは歌だった。口ずさむが、歌詞が途切れる。同じ所でつまずき、最後まで歌うことが出来ない。次に消えたのは料理だ。夫の好物を作ろうとするがどうしても手順が思い出せない。治療には金がかかったがどうすることもできない。彼女を失ってどうして幸せを築いていける?夫は逃げ出した田舎に手紙を書いた。窮状を訴え、援助を乞うた。手紙は戻ってきた。彼らの遁走後、商家は不況のあおりで没落した。屋敷を売って別の町に越したらしい。頼れる者はいなかった。唯一の希望が潰える日が来た。堕胎せざるを得ないと分かったからだ。彼女の面倒を見ながら子どもは育てられない。彼女が貧窮院に入れば話は別だ。そうなっても構わない、と泣く彼女に彼が反対した。
 二人の仲は一時冷めきり、その内彼女は一人で外出することもできなくなった。ある日、この小さな靴下はどこから来たの、と妻は聞いた。靴下は彼女が編んでいたものだ。生まれてくるはずだった子供のために。妻は入院した。彼女に会うため、彼は足繁く病室に通った。笑顔を見せるために病院を訪れては悲嘆にくれ帰途に就いた。現存する治療法は試し尽くし、気が付けば全財産が消えていた。殺風景な病室を飾る花一輪すら買ってやれない。夫は心労に疲弊し、肉体と精神は狂っていった。花が好きだった妻に送るための花を探してこの庭に行きついた。花を盗むのが見つかれば罪になる。見つかってもいい、と思えた。ただし捕まるなら意味のあることをしたい。花言葉を調べ妻へ送る思いを託そうとした。次の日、面会に行くと彼女は笑顔だった。そして言った。おはようございます、お医者様。
 自分を忘れないでほしい。この思いを花に託して贈ろう。彼女は花が好きだから。思いを託した花を見て喜んでくれるなら、どんな危険もいとわない。

 花盗人は黙った。窓辺に座った詩人が私を見る。
 「警官を呼んでくる」
 私は上着をとり、部屋を出る。階段を下り、ため息をついた。一階の奥にある小さな部屋は、庭師のものだ。あと数日で庭師がこの部屋に入り、庭を行き来するようになる。全て元通りになる。園芸用具の引き出しから園芸鋏を取り出す。夜の庭に出る。雲を透かして下弦の月が見ていた。青紫の芳香を放つラベンダー畑に立つ。一束刈り取る。病人には香りも良いだろう。先にいた部屋を見上げた。詩人の声が聞こえる。
 「安心したまえ。警官には顔が聞く。とりなしてやろう。しかし、花言葉とは詩作にも利用できるな。こんなのはどうかね。ポピーは『慰め』、ミントは『美徳』、ラベンダーは『許し』……」