【日記】悪の彼方へ/デストラクションをめぐって
・24.6.7-①
神戸三宮駅を抜けると、そこはパチンコ屋であった。
都心の、針金細工のように入り組んで天を衝くように伸びる諸々の建築たち。その合間にその風景はあった。それ自体に驚きはない。僕の心を捉えたのはそこから流れ出てきていた音楽だった。
Adoの《唱》。昨年何度となく聴いたポップスだ。紅白歌合戦で歌われていた記憶がある。自分から進んで聴くことはなかったが、「目蓋を持たない耳」に、それはほとんど酸素のように飛び込んできていた。その記憶がある。
だからその時も、僕はその曲を聞き流そうとした。雑音として。しかしそれはかなわなかった。
瞬間、僕は「終末」のイメージを思い浮かべた。否、思い浮かべさせられた。
それはほとんど「到来」と言ってよかった。その否応なさに能動性はなかった──はずだ。
あるいは、それは終末ではなかったのかもしれない。リドリー・スコット(ドゥニ・ヴィルヌーヴではなく)の『ブレードランナー』、押井守の『イノセンス』中盤、択捉の都市群。そうした景観が廃墟として、人の群れの拭い去られた「寂しい」ものとして、ふと僕の脳裏をよぎったのだ。
なぜ、と思った。たしかに《唱》は豪奢で、こう言ってよければキッチュだ。代理店の匂い、と言ってもいいかもしれないが、曲自体が、一つのデコラティブな殿堂としてあるようなそれと「終末」は、少なくとも折り合わないことはないだろう。だが、なぜ。なぜ、いまなのか。
それで思い出す。僕が、自らの心が捉えたそのような感覚に戸惑っていた数週間前。僕は、一つの映画を取り落としていたのだ──。
・24.6.9-①
悪は存在しないのだろうか。存在しないとして(あるいはするとして)それはいかにしてか。無論、映画『悪は存在しない』はそうした問いを、タイトルの次元にすでに抱え込んでいるはずで、この立場は特異でもなんでもない。しかしある映画に対して特異である、ということは、たぶんに誠実な解釈を捨ててしまっているということで、それはそれで問題であるような気がする。特異であることを求めるということ。誰も探り当てたことのない言葉を、内側から抉り出すということ──。
そういうわけで、少し前に僕はこの映画についての時評を(いつものように)書いていた。しかし結果として、それはレトリックになってしまった。言葉遊びに次ぐ言葉遊び。意味内容を喪失した、過多で空疎な文字の連なり。そのようなものとして。
スノッブじみていることを装置で援用すれば、かつてレヴィナスが「存在」一般に対してそうしたように、僕もまた、「悪」一般から逃れ出たテクストを成立させようとして──僕の方は失敗した。こうして並置してみると、知性の問題が際立つようであまり快くはないが、受け止めるしかないのかもしれない。
以下に引くのは、そのようなテクストである。つまらない、と感じたタイミングで読み飛ばしてくれてかまわない。オチはなく、表象・物語分析も途中で停まっている。それでも、僕はこれをネットに流さずにはいられなかった。そのような哀れな叫びとして、感受してもらいたい(あるいは感受しないでもらいたい)。
・色のない傷痕──『悪は存在しない』について(24.5.23)
子どもの頃、僕は心底から、何かを美しいと感じたことがなかった。美術展にも動物園にも水族館にも──まして星や雲や海などは、すべて僕と根本的に断絶したものであるにすぎなかった。拒まれている。そう切実に感じたことをよく覚えている。
大自然。そう呼ばれる境域がいまもなお確かにあるとして、その細密を愛でることは、僕にはできない。美しい。美しい。美しい。何度唱えてみても、この三文字はどこまでも言葉でしかない。それは色褪せた風景として、決定的に「枯れた」風景として立ち現れるのみだ。無論、ここにおいて本当に枯れているのは僕の方である。想像力を欠いた人間は現実に逃避する、という言葉があるが、逃避すべき現実を持たない人間には──つまりロードサイドの閉塞に閉じ込められた人間にとっては──やはり虚構しかない。
つくりもの。その美しさはどこまでも予測され制御された、思念の産物である。そしてこと映画において、その模造性は際立つ。切断と接続によって成り立つ、音と光のつらなり。ここで現実の一切は素材に変じるけれど、それはまがいものであるということを意味しない。模造は、すべてを映す目だけだ。
ショット、およびそれを成り立たせるカメラは、唯一にして絶対のまがいものとして、目なるものの模造としてただ、ある。そしてこの目を起点として、一切の虚構、一切の美性は生じてくる。編集。アニメであればコンポジット(撮影)と呼ばれる過程を経て、虚構は虚構として成立する。フィルムが生起する。「シネマ」なるものの母胎の中で。
まがいものの目が、まがいものの現実を映す、その過程。そこで美しさは仮構される。ある人間にとって美とはそのようなものであり、そのようなものでしかない。そして『悪が存在しない』が切り込んだのは、まさにそこだったように思う。
ファーストカット、木々のつらなりが影のようにフィルムを流れていく一連のシークエンスの果てしなさは、ただちに時間の壊れを指し示す。それは差異ある反復ではなかった。それは動作が状況を完結させる、ある統制された映画的時間ではなかった。絶え間ない現れが画面を覆う。そして映画は物語を語り始める。
均質な光のなか、見知った山林において、われわれが見知ったポリタンクに給水していく男。その反復はどこまでも、われわれの属する世界、見、触れられさえするものとしての世界の姿そのものだった。世界を異界として対象化するまなざし──まがいもののまなざしは、ここにはない。あるのはただ、反復と確認だけだ(その点において、この映画は黒沢清の『カリスマ』に似ている)。
無論、それが映画である以上、光彩も色彩も音響も、すべてが予測され制御された産物としてあるのは間違いない。「ここにあるのは全き現実そのものだ」と断じるつもりはない。ここにあるのは「見知った」虚構の景観だ。そしてそのうえで、カメラは可視と不可視を撹乱する。
引き伸ばされたカットを木々のつらなりが分断するとき、時間もまた切断された。
ここにおいて、無数の断層を抱え込んだ世界が、そのむき出しの姿を露わにする。正確には、カメラとそれを配置した人々の思弁が、世界の世界たるゆえんへと接近している。
説明会のシーン。無数のクリシェが、無数のレトリックが入り乱れるそれは、ほとんどクライマックスの様相を呈してわれわれに迫る。田舎対都会、利権対文化といった対立軸が想定できるとすれば、ここで語られる言葉はどれも、そうした対立を決着させるだけの極度を備えている。しかしここに決着はない。そもそも決着すべき状況が存在しないからである。
誰もが物語を語る。自分の言葉を語る。そしてそれは一瞬一瞬のうちに生起していながら、同時にあらかじめ予期されていたものでもある。現実の断片を整然と布置させることで生起するものとしての「自分の」物語。それはどこまでも虚構として提示される。無論、だからとらいってそれが現実に対して無力である、というわけではない。ただ、そうして生成された虚構はすべて、ある限定の内側においてしか成り立ちえないのだ。
・24.6.9-②
「悪」であるとは別の仕方で、何か言うことはできないか。僕はそのような強迫観念に取りつかれていた。その起源を探ることは恐ろしく困難で、多分不可能だろう。だがなぜその観念が失敗に終わったのか、ということを、言い当てることはできるような気がする。
要するに、「悪」から逃れ出ようとする運動自体が、自分とは何のかかわりもない事態に過ぎなかった、ということなのだろう。
脱出への切実さがあれば、それはいかなるかたちであれ成立したはずだ。こう言ってよければ「成功」したはずだ。それが挫折したのは、ひとえに、僕が僕の言葉を獲得しえなかったからに他ならない。
だから僕は、自分とかかわりのある物事を書こうと思う。すなわち、終末と廃墟について。
・24.6.8
用事があり、街まで来ていた。時間が奇妙に余っていたため、とりあえず駅前のマックに入った。そこで初めて、《絶絶絶絶対聖域》を聴いた。anoと幾多りらのデュエット。どちらもそれほど注目していたアーティストではなかった。
ふと、終末が頭をよぎった。今度のそれは唐突なものではなかった。その曲自体がある種の終末を取り扱ったものだったからだ。『デデデデ』を観ていない(読んでもいない)ので詳しいことは分からないが、どうやらそういうことらしい。内容から発出したものではない、独立した終末の気配。僕はそれを感受した。二人の声に。
キタニタツヤにとってのsana(sajou no hana)、n-bunaにとってのsuis、カンザキイオリにとっての花譜。ボーカロイド・プロデューサーとしての出自をもつアーティストはしばしば、ボーカリストを特異なかたちで見出してきた。そしてこの二人もまた、その系譜に属するはずだ。「見出されてきた」アーティストとして存在する。その歌声が終末であるとは?
・24.6.7-②
町角、裸体の彫像が見下ろす(顔は造形されていない)広場に、僕は腰を下ろす。
スマホを開き、通知と時刻を確認してから、見に行こうとしていた映画の、ネット予約を確認する。ジョナサン・グレイザー『関心領域』。12時からの上映までには、まだ時間があった。
その時、耳に一つの曲が突き抜けた。
ポップでさえあるような軽やかさで、しかし確かな「終わり」の予感をたたえた切実な響きで、それは飛び込んできた──Hana Hope《flowers》。
スマホゲーム『Fate Grand Order』の8周年記念映像の主題歌として知られる曲だった。それが広場に鳴り響いている。それも、個人の端末からではなく、スピーカーから。
顔を上げると、音源があった。巨大なモニターだ。「KOBE 203X」ショートムービー。それを彩っているのが、まさに《flowers》だった。その場で調べると、それが(English version)として再編されたものであることが分かった(https://x.com/hanahope_2022/status/1780565151072346436?s=46&t=a4EMvSDzMpJf8vTJfHzYSw )。
無論、その映像も、プロジェクトも、恐らくはFateとは関係がない。神戸のいくつかの場所はかつてufotableによるアニメ『Fate/stay night』の舞台となったらしいが、それにかけたものではないだろう。たしかFGOの周年記念映像はufotableの担当ではなかったのだし(Clover Worksだったか?)。
しかしその曲は、自分の中では、あの映像と分かちがたく結びついていた。FGOをプレイしていないにもかかわらず、僕はFGOに思いをはせずにはいられなかった。
2017年の終末。人類史の終わり。史実と神話と幻想が混淆したビッグヒストリーの仮構。かつて現代伝奇として一時代を築き上げた『Fate』は、汎人類史そのものを拡張することで、〈いま・ここ〉をも、まったく新たなかたちで拡張してみせた。否、それはもはや拡張ではなかったのかもしれない。それは虚実の転倒であり、虚実という区分そのものの崩壊であったのかもしれない。複合現実の出現。現実が虚構によって規定され、虚構が現実によって規定されるような関係。
一種の終末の中を、僕らは生きる。
現実から切断された虚構の終末、というヴィジョンは、もはや有効ではないのだろう。虚構が終末を描くのならば、その時点で現実もまた、終末に呑み込まれている。それだけ、今や両者は近接してしまっているのでは。
そしてそこにおいて、改めて「悪」の問題は立ち上がってくるのかもしれない。
いかにして「悪」を設定するか、という問題は、型月の創作を規定し続けている。そしてFateは、奈須きのこが、その他無数のライターたちが「悪」をまなざすことで成立してきたはずだ。
いまなお、型月について考えること。そこから、僕は始めなければならないのかもしれない。否、始めたいと思う。「悪」をもう一度まなざすために。
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