【時評】「喪失としての歪み、模倣としての受容、あるいは憐れみの讃歌について」──『キリエのうた』によせて

以下の文章は2023年度神戸学院大学映画研究会批評合同誌〈No Enemy, But System.〉のために書き下ろしたものとなる。

 波形。それは点と点、それを接続する線という二次元的な関係における逸脱と、それを包括する連帯に付された名前だ。線は点を迂回しようとし──それでもなお、線という実存の限界に制約され続け、線という実在へと回帰する。そうした波形の連続として音はあり、その幾何学的配置として音楽が存在する。
 そうしたロジックからもわかるように、音楽とは常に逸脱を包摂する秩序の中に存在する概念だ。そしてそれは、時として文明──群れとしての人間の位相に相似する。心理学者のアルバート・バンデューラは人間の行動の源泉を模倣に見出した。社会的学習理論。参照と模倣こそが人間の行動を形作る、と。まるで、波形が、新たな波形を生む共振現象のように。
 この映画はセリフの一片まで緻密に制御されていた。そして、そうした映画において、キリエの歌声は、先に触れた制御性からの逸脱として演じられる。キリエの声は小さい。そしてそれに合わせ、他の登場人物の声もまた小音量のものとして流れていく。そうした参照/模倣の連続を断ち切るものとして、キリエの歌声はあった。それはどこか、ハード・ロックにおけるディストーション(歪曲音)のようでもある。
 だがディストーションが単なる不協和音を超越し受容されたように、キリエの歌声もまた受容されていく。彼女は、彼女の歌声は、彼女の歌はその特異性によって排斥されない。カフェで歌うシーンを思い出そう。それはどこまでも圧倒的なもの、神聖なものとして受容されていた。
 そうした歌声とは異なり、彼女という人生の、存在の波長は「この」世界と相容れない。キリエの声は失われたわけではなかった。それはただ、世界に染み込まないものとしてあるだけだ。声はある。響かない、という事実とは関係なしに。
 この映画を規定する四つのストーリーライン(登場人物たちにそれぞれ対応する)のうちの一つ、キリエのストーリーラインは、そうした彼女の「声」の回復が主題となるが、彼女の回復は、同時にその歌声がディストーションとしての性格を失い、それこそオーバードライブ(歪曲音模倣)的に受容・拡散されていく過程でもあった。
 それはキリエをキリエたらしめるものとの訣別だ。回復は、ある面で別離でもあった。
 登場人物が言うように、別離とは宿命的なものだ。この世界に永遠はない。否、世界それ自体もまた、ない。未来に希望があろうとなかろうと、永遠は、世界は存在しない。だが、それでもなお彼女は彼女として歌い続ける。鋭く、激しく、ただそうあるように。ディストーションとして、自分がそこにいること、自分という人生がそこに流れていることを証明するために。
 その凄絶な佇まいを、僕は他の何よりも美しいと思う。雑音をもかき消すほど──否、雑音さえも旋律として響き渡るその歌声を、僕は他の何よりも切実だと思う。そのように響きゆく映画として、これは圧倒的な質感をもって存在する。

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