【コラム】問題設定:ひび割れとセカイ系(あるいは『SSSS.GRIDMAN』)
こんなポストを見かけた。
記事のタイトルから察されるかもしれないが、ここで検討していきたいのは永井均の立場でも、そこで問題とされている文脈でもなく、引用元ポストで列挙されている思想的立場の二つ目「『私とあなた』しか存在しない(セカイ系)」という立場だ。
初見、違和感を覚えずにはいられなかった。
無論、ゼロ年代の(主にネットの)言説空間から登場したこの言葉の実質性について、かみ砕いて言えばそれが現に使われていた際の空気感・雰囲気を、遅れてきた世代であるところの自分が十全に把握できているかというと、否と答えざるをえないだろう。しかしそれを差し引いても、この語用には違和感が拭えない。
なぜか。答えは単純で、〈セカイ系〉というのが特定位の思想的立場を指し示す言葉ではなく、あくまでも、サブカルチャーの一ジャンルを指し表す言葉であるからだ。だから独我論とか仏教とか、そういった「立場」と並置するには違和感が残る、というのだ。
〈セカイ系〉と並置するべきなのは(いささか紋切型ではあるが)「現代伝奇」とか「日常系」とか「リアル・ロボット」とか、横断しても「本格ミステリ」とか「ニューウェーブ(SF)」とか「サイバーパンク」であるべきで、決して現代思想と短絡していいものではない。それは単に(これはあまりいい言葉ではないが)バズワードを並べただけの空疎な言説に堕してしまう。
……無論、この程度のことを言うためにわざわざnoteを開いて記事の執筆を開始したわけではない。こうした前提のうえで考えたいことがあるからだ。それは〈セカイ系〉の構造がどれほど純潔であるか、という問題、つまり先に排斥したはずの、思想的立場に漸近するような問題だ。
〈セカイ系〉は思想的立場ではない。ゆえに、固有の作品名や作家(思想家ではなく)の仕事を参照することでしか語りえない。しかしそうした経由点を設定することによって、思想的立場の文体で、言葉で語ることが可能なものでもある。現に、ゼロ年代の中葉から後半にかけて展開された言説の背後では、そのようなロジックが駆動していたはずだ。
問題設定。〈セカイ系〉は純化された二元論なのか?
独我論の次に持ち出されるべき二元論としての〈セカイ系〉。なるほどそれは一定の説得力を持ちうるようにもみえる。しかしそれは言葉でしかない。個々の具体的な作品を捨象した概念操作にすぎない。そう言ってしまいたい。
〈セカイ系〉の代表的作品としてしばしば名前を挙げられる新海誠の劇場デビュー作『ほしのこえ』はなるほどそう言いうるだろう。ぎこちない言語操作で補足すれば、そう言いうる契機を内包しているだろう。しかし同様の文脈で持ち出される『イリヤの夏、UFOの空』はどうか。あるいは『最終兵器彼女』は。
このふたつは明らかに「きみ」と「ぼく」の外側にあるものを描きはしていなかったか。「きみ」と「ぼく」の関係それ自体の不可能性を描いてはいなかったか。つまり、断絶と喪失を。
否、ここで検討すべきなのは断絶とか喪失とかいったものの手前で、それを可能にしている構造の方だ。〈セカイ系〉の与件たる(一般にそうみなされている)「世界の終わりといった大状況」を物語のレベルで支えている構成要素の方だ。それは軍事的意匠、より突き詰めて言えば「軍人」ではなかったか。「第三者」ではなかったか。
つまり「きみ」と「ぼく」の関係は、絶えず闖入者によって脅かされている。そしてそれは、純化された二元論に対する他者・外部として機能しているのではなく、むしろ「きみ」と「ぼく」の秩序の与件としてある。こうした「第三者」、大状況を告げ知らせるなにものかを抜きにしては、〈セカイ系〉は成立しない。
こうした構図をより精細に描き出していた作品として、かなり後のものにはなるが『SSSS.GRIDMAN』(2018年)がある。
〈怪獣〉と〈巨大ヒーロー〉が終わりなき闘争を繰り広げる街におけるジュヴイルを描き出した本作を可能にしていたのは、ひとりの少女の恣意だった。少女は世界を創造し、自意識と密接に結びついた〈怪獣〉を扱うことによってそれを「大雑把に」調整する。それを外部から抑止するのが本作の〈巨大ヒーロー〉グリッドマンとその仲間だった。
少女はなぜ怪獣を「調整」のために用いなければならなかったか。これが本作を貫く問題となっている。そしてその説明は、朧気であるがなされていた。
少女の創造した世界には、「イレギュラー」と「ジャンク」が散在している。それは(恐らくは想像力の限界によって)創造の過程で否応なく発生するもので、避けがたい。だから世界には、事後的な調整が必要になる。しかし、それはうまくいかない。イレギュラーは、絶えず完全な世界をかき回し、脅かす。教室の隅の席に唐突に叩きつけられるソフトボールの暴力性。
そうしたイレギュラーを排除するために、世界を壊し続ける怪獣は必要となる。しかし完全な排除が不可能である以上、世界は灰になるしかない。滅びは必定となるほかない。その限界のなかで、改めて「ジャンク」の可能性が浮上してくる。自らが捨てたものたち。役に立たないくずのたまり場。そうした場から生起したのが「外部」としてのヒーローであるというのは示唆的だ。ここにあって、ジャンク(たち)は大状況(=カタストロフィ)を告げ知らせるのではなく、外部を予感させるのだ。創造主は存在の彼方へと、世界の外側へと、「均一なマトリクスの裂け目の向こうへと」、逃れ去らなくてはならない。それは成熟の契機であると同時に、創造に対する責任を果たすことでもある。すなわち、創造主として完成することでもある。
無論、こうした物語構造は「ジュヴナイル」を前提にして成り立っている。『グリッドマン』の主題は恐らく「成熟」に接近していた。ゆえに、逃れ去るべき世界をもたないわれわれが、そこで提示されたものをそのままに受け取ることはできない。〈セカイ系〉的な断絶のあとでわれわれに残されているのは、「あの馬鹿げた世界」に他ならない。『ほしのこえ』的な原風景に他ならない。
では、どうするのか。ここまでが問題設定になるが、その先に続く言葉について、自分はまだ知らない。