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【コラム】来るべき「来るべき『SAO』論のために」のために──ゼロ年代とアマチュアリズム

 川原礫『ソードアート・オンライン』の話は、僕にとってはかなり気の重いことである。いまだ気持ちの整理がついていない、といかにもライトノベルらしいパロディ的な記述から始めてしまったが、実のところこれはそれほど正確な表現ではない。

 『SAO』についての言説は、というより、その受容のされ方はいささか錯綜している、という印象を受ける。そして恐らく、僕が『SAO』に見出していたものは、そうした受容の領域、より突き詰めて言えば「感想」「考察」の領域には属していない。無論、ひとりの読者としての僕は思い切り『SAO』の考察をしていたわけで(作中作「ソードアート・オンライン事件」の年表を空で書くのにハマっていたし、細部でいえばキリトがシリカに手渡したダガーの名前まで覚えていた)、こういうメタ的な立論がどこか鼻につくのも事実だ。しかし原作『SAO』のウェブ連載分が書籍として完結してからすでに五年以上が経過し、現実が作中時間に追いつきつつある現在、改めて『SAO』について考えることは、無駄でないばかりか必須でさえあるだろう。

 まず前提を確認する。『SAO』は(「デスゲームもの」であるのは当然のこととして)いわゆる「俺TUEEE」系のライトノベルとして、そして驚くべきことに「異世界もの」のライトノベルとして受容されている向きがある。どういうことか。それは2010年代(テン年代)という十年期に由来する。

 電撃文庫から『SAO』が発刊されたのはゼロ年代末のことだが、これ以降ウェブ初のライトノベルは次々と書籍化されていくことになった。そのタイトルを総ざらいにしてあげつらうことはしないが(それは自分には荷が重すぎる)、ここで書籍化された作品は、粗略にまとめれば、「Arcadia」や「小説家になろう」に端を発する「異世界もの」であった、と言うことができる(かもしれない)。ここで「異世界もの」と言うのは、異世界転生や異世界転移(召喚)の要素を含む一群のライトノベルのことだ。

 こうした流れは、主に書籍や新人賞の世界における「現代学園異能」の流行とはパラレルなものであったろう。前島賢は『セカイ系とは何か』のなかで、このジャンルについて説明するために『鋼殻のレギオス』を挙げていたが、テン年代という位置からまとめれば、それは『とある魔術の禁書目録』の登場や、現在ファンタジア大賞の選考委員を務めている三人の作家の代表作──『ハイスクールD×D』・『デート・ア・ライブ』・『ロクでなし魔術講師と禁忌教典』──によってしるしづけられる。これはゼロ年代において『灼眼のシャナ』や(ノベルゲームではあるが)『月姫』が作り出した流れ・系譜の発展深化だ。ロートルであることを承知で「ゼロ年代批評」のタームを使えば「物語回帰」の「(もっぱら、9・11以後の)戦争文学」ということになる。とはいえ、「現代学園異能」もまた、「異世界もの」がそうであるようにテン年代に属するジャンルの範型だろう。

 閑話休題。『SAO』はテン年代を貫くふたつの構図でいえば、前者に属する作品とみなされている。すなわち、「この現実」から遊離して、異世界(それがたとえサイバースペースであっても)に脱け出すライトノベルだ、と。

 しかし、それは『SAO』の重要な側面を見落としてしまっているのではないか、という感が拭えない。それこそが先に触れた「倒錯」、というか読み違えにあたる。

 どういうことか。事は単純で、『SAO』を「異世界もの」として、テン年代の小説として読む事は、原作がテン年代ではなくゼロ年代に書かれたものだという事実を見落としてしまうのだ。無論、書籍がテン年代に展開された以上それが「誤読」であると言うことはできないが、書かれた環境が読み落とされてしまっていることは端的な事実としてある。

 ただちに次のような疑問が浮かぶ。では、『SAO』(とりわけその内容)にとってゼロ年代とは何なのか? 『SAO』がゼロ年代に書かれた、という事実は何を意味するのか? 「だからどうした?」

 それを説明するためには、やはり原作の本文に向き合う必要がある。以下に引用するのは、デスゲーム状況が開始したことが宣告されるチャプターの一幕だ。

改めてぐるっと周囲を見回すと、存在したのは、数十秒前までのいかにもファンタジーゲームのキャラクターめいた美男美女の群れではなかった。例えば現実のゲームショウの会場から、ひしめく客を掻き集めてきて鎧兜を着せればこういうものができるであろう、というリアルな若者たちの集団がそこにあった。

川原礫『ソードアート・オンライン1』(電撃文庫、2009年)56頁

 「ソードアート・オンライン」事件をしるしづけているのは、「ログアウト不能」という要素だけではない。現実の顔が晒される、というのも、不可欠の要素としてある。そして恐らく、「ゼロ年代の」作品としての『SAO』にとってはこちらの方が重要だ。なぜって、ここにあるのは「コミケ文学」としての『SAO』の姿だからだ。

 『SAO』の原作は元々電撃大賞に応募するつもりで書かれたものだった。しかし規定枚数に収めることができず、ウェブに転載された。それがゼロ年代における『SAO』だ。そしてそれが公開された2002年というのは、デジタル・メディア時代におけるアマチュアリズムの結晶として絶大な評価を受けた新海誠『ほしのこえ』が公開された年であり、かつ、やはりアマチュアリズムによってしるしづけられるZUN『東方紅魔郷』が発表された年だった。

 特に後者『東方紅魔郷』は重要だ。数年の沈黙を破って、ゲームシステムを一新して発表された新生「東方project」の第一作である本作の物語は「東方」のどこかの湖畔に建てられた吸血鬼の洋館に向かう、というごく単純な、しかしいささかねじくれた筋をとっている。これを原作が販売されたコミケの比喩として読み込むことは、おそらく可能だろう。「東方project」は「コミケ文学」として始まったのだ、と(ノベルゲームではないが)。

 アマチュアリズム。重要なのはそれだ。『ほしのこえ』にしろ『東方紅魔郷』にしろ『SAO』にしろ、アマチュアリズムによって通貫された作品だ、というところにその肝要がある。そしてそれを端的に表すのが、先の引用部だ。『バトル・ロワイヤル』の記憶が鮮烈なゼロ年代初頭において、「コミケ(的な時空間)をデスゲームにする」という想像力は、同時代的でありながらきわめてアマチュアリズム的でもある。同一の方向を向く、しかし決して「仲間」ではない「オタク」のユーザーが、ある状況、あるゲームのうちでばらばらに戦うこと。それを促す時空間。

 しかし『SAO』におけるアマチュアリズムは、同時にワナビ的なものを胚胎してもいるのではなかったか。「デスゲームもの」というラベルに反して、『SAO』は肉体的現実によって縁どられている。「フェアリィ・ダンス」編、「ファントム・バレット」編における巨悪との戦いは、ともに現実の暴力によって決着する。そしてそうした現実の原理、自己卓越化の志向、どこかへ「突き抜けよう」とする意志は、「心意」という設定によってゲーム世界に逆流することになる(「アリシゼーション」編)。そのこと自体が何を意味するのかについては、まだ確定的なことは言えない。

 

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