亡霊、ひび割れたイノセンス──『ガールズバンドクライ』のために
はじめに
本記事ではアニメ『ガールズバンドクライ』の物語・表象分析を通じて、それが胚胎していた可能性を描出する。
それはさらに、追懐としても機能する。過ぎ去ってしまったすべてのもの。失われてしまったすべてのもの。いつかの放課後、いつかの曇天、いつかの夢、いつかの失望、いつかの敗北。そうした一切にまつわる感傷を精緻に再構成し、しかるのちに解体・葬送すること。奇蹟からも破局からも疎外されたどこか・だれかのためのテクスト。そのようなものとして、これはある。
Ⅰ「井芹仁菜と不可能性をめぐって」(1-5話)
自分の話から始めたい。「一番行き詰まっていたときに聴いて」いた音楽の話から。等身大の井芹仁菜と向き合うのに、匿名のままではあまりにも強度が足りない。
──毎朝聴いていた歌がある。KID'S A《午後、暗幕》。静岡、浜松のスリーピースバンドたる彼らの、堂々たるパワーロック。しかし特筆すべきはその歌詞である。
断章のような、絶えざる意味の分節によって構成されたその放埒な歌詞はしかし、何がしかのアイロニーとしては機能していない。あくまでもそれは切実なものとして、偽らざる「本音」として語られている。遡れば、Aメロにおいてもそうした傾向は表れており、"夜の大地 馬車の牽く音がしてる"と語った次の歌詞では"空にUFOが"と、景観が撹乱されている。その詩的世界は、一つの秩序たることを拒んでいるかに見えるし、事実、その後作詞者はしばしばそのように評価された。
崎山蒼志。それが作詞者の名前(当時は「そうし」)である。
某ネット番組に新進気鋭のシンガーソングライターとして颯爽と登場した崎山蒼志は現在、メジャーで3枚のアルバムをリリースしている。アニメ『僕のヒーローアカデミア』第五期エンディングテーマ《嘘じゃない》や、アニメ『呪術廻戦 懐玉・玉折』エンディングテーマ《燈》などの楽曲は広く知られるところとなり、メディア露出も増えた。名実ともに一端のシンガーソングライターとして活動している、と言って差し支えはないだろう。
そしてそれゆえに、2010年代中頃から始まるその活動の足跡は『ガルクラ』のそれと響きあう。メジャー/インディーズ。音楽の世界を対象とした言説においておいてしばしば主題として立ち現れるその問題を、もっともよく体現しているシンガーソングライターの一人として崎山はいた。
無論、それは当人の問題では決してない。それは全き「崎山蒼志」をまなざす消費者(僕も含む)の問題でしかない。「喪失」という観点から、上に引いた二項対立を語ること。見出すこと。感傷を立ち上げること。何もかもが身勝手で、不遜でしかない。
エレアコと学ランでネット番組に颯爽と現れ、今にも壊れそうな歌を紡ぐ姿のなかに見えた希望。それが喪われているとか喪われていないとかいう問題は、すべて身勝手な空中戦、あるいは一人相撲にすぎない(同じようなスタイルの楽曲は依然としてあるし、そもそもデビュー前の弾き語り楽曲は今でもそれなりに、積極的に再録されている)。
けれど、と思う。けれどKID'S Aが活動を停止したのは事実なのだ。その音が紡がれることが、恐らくもうないというのは。
今でも崎山はバンドスタイルでの楽曲を作り続けている。しかしそこにKIDS'Aのものとしての《午後、暗幕》はなく、同じく同時期の代表的な楽曲である《keshiki》もない。それは過ぎ去ったものとしてただ、断片的な過去としてライブ音源が残るのみだ。
失われた歌。失われた詞。後に残るのは、それが切実なものとしてたしかにあったという実感だけだ。過去の断片が、不在の断片が、ある実感の中であいまいな像を結ぶ。
『ガルクラ』一話は、そのような過去・不在を、亡霊として立ち上がるところから始まった。喪われた歌の、その亡霊が、かすかな響きの中でその存在を立ち現れさせる。
「あの」ダイヤモンドダストはもうないということ。そこからすべては始まる。井芹仁菜が東京へ向かう新幹線の中で聴いていたのは、だからダイヤモンドダストの楽曲・《空の箱》そのものである以上に、他ならぬ河原木桃香の声であった。タイムラインの、あるいは現実の雑踏の中から、その存在を拾い上げる。Aパートはそうした探訪の過程としてあった。
次いで映し出される、まくしたてるように身の上話を語る仁菜の姿。それには、どこか、握手会・撮影会のイメージがまとわりついている(そこに向かう「ぼくら」の姿のイメージが)。そこで語られるセリフはなにか、あらかじめ整理されたものであるという印象を起こさせるものだった。だからこそ、その「破れ」が重要となってくる。すなわち「怒り」が。
歌が喪われ、ただ怒りだけが残ること。ここにおいて敵とは不在そのもの、喪失そのものであり(物語の中で直接的に名指されはするものの)、であればこそ、「負けなさ」が重要になってくる。
喪失を前にしてわれわれは沈黙する。それは喪失が、ある実体ではなく、漠とした輪郭そのもの、亡霊そのものであることにかかわっているが、時折、そのような沈黙の合間を縫って、空風のように怒りが吹き抜けてくることがある。本作が切り取り、横溢させるのはまさしくそれであり、そこにこそ、『ガルクラ』の真髄がある。「あんなの、"ダイヤモンドダスト"じゃない!」井芹仁奈がそう叫ぶとき、僕たちもまた、喪失に最も接近する。喪失が敵になり、亡霊が名指される。
決定的に喪われてしまった、名前を与えられることさえなかったすべてのものたち。かつて僕を支え、規定し、去っていったすべて。その輪郭が、ここにおいて立ち上がる。亡霊が名指される瞬間、それは幽けき自身の様式において、たしかに喪失を喪失として現出させる。
無論、井芹仁奈という主体は、恐らく誰にとっても、全き自己投影の対象としては機能しない。彼女からは「ずるさ」が決定的にスポイルされていて、そこに断絶がある(「正論モンスター」!)。アニメというイノセンスからの疎外。ずるさによる疎外。それが、ここにはある。しかし画面上の怒りは、闘争は、たしかに切実なものとして、われわれの情感としてそこにある。
ところで、怒りが怒りとして現出するためには、情感が情感として縁どられるためには、つねに、世界からの抵抗を必要とする。
そして、ここで──あるいはここ数年の、音楽を取り扱ったフィクションで──取り扱われていたのは、そうした因果関係が逆転した現実にかたちであったはずだ(*1)。世界そのものが決定的な不可能性として立ち現れてくるところに、抵抗しての怒りが、激しさが成り立つということ。そうした抗争・相剋のかたち。序盤において井芹仁菜が体現し、そしてわれわれが見出していたのは、そうしたかたちでの情感に他ならない。
不可能性を象徴する「壁」としての世界に立ち向かうための手段。その振舞い。そうしたイメージを投影され、またわれわれの中のそうした傾向を照らし出す主体として彼女はあったはずだ。
そしてそれを支持し、規定していたのが表象──ライブの演出だった。
1話。《空の箱》。雨曝しの雑踏の中で歌い始める仁菜・ギターをかき鳴らし始める桃香に追随するようにして、通りすがりのロッカーたちが演奏を開始する。無論、そんなことはありえない。それは明らかな「嘘」だ(11話で補足されはするが)。しかし〈いま・ここ〉において、演奏は分かちがたく、確かなものとして結実している。
そうした「嘘」は、曲の進行に従って積み重なっていく。雨粒は止まり、雑踏も止まり──そして叫びに呼応するようにして世界が虹色に光り輝く。放埓な光が拡散し氾濫し、すべてが溶けて消えていくように見える。
フィクション、とりわけアニメにとって、リアリティラインの存在は何にもまして重要だ。どこからが現実で、どこからが幻想なのか。その線引きが上手く行われなければ、フィクションはフィクションたりえない。そして『ガルクラ』が選びとったのは、突き抜けた幻想を表象することで、現実それ自体を問い返すという表現だったように思う。
〈いま・ここ〉の一瞬だけがすべてで、その極限においては何もかもが止まって見える、光り輝いて見える、という認識。それは言葉に還元された時点で色あせ、陳腐なものへと変じてしまう危険をつねにはらんでいるし、事実、この文章もそうなっているのかもしれない。そしてそれは表象においても、程度の差こそあれ同様である。
しかし『ガルクラ』は描き切る。すべてが幻想に変じる一瞬を。「嘘」や「ありえなさ」が世界を覆うその一瞬を。不可能性の寓意としてわれわれを抑圧する世界に吹き抜ける鮮やかな情感を。それは「紛れもないロック」であり、そしてこう言ってよければ奇蹟でもありうる。世界がひび割れる瞬間に与えられる名。それが奇蹟でなくてなんだろうか。
無論、それは有限性の外部から到来するものとしての奇蹟ではない。それはいま・ここに生きているということの根源的な受動性。あるいは、この身体、この存在の内在性を前提として(/において)現れた奇蹟だ。この生のすべてが世界を照らし返すとき、立ち現れてくるもの。それはどこまでも固有のものではあるが、表象の次元において共鳴可能なものに変じる。そう信じられるだけの輝きが、たしかに『ガルクラ』にはあった。
そして、物語は反転する。
Ⅱ「河原木桃香と群像をめぐって」(6-11話)
反転。『ガルクラ』のシリーズ構成を捉えるうえで、それは重要なタームとしてあるように思う。
というのも、本作は井芹仁菜という主体に分かちがたく覆われているように見えながら、その実ある種の群像劇として成立しているように思うからだ。どういうことか。
キャラクター・コンテンツ、とりわけソーシャルゲームを原作とするアニメに顕著だが、そこにおいて、「主人公」は存在しない。肝心なのはいかに多数のキャラをヒエラルキーなく描き出せるか、であり、ゆえにこそ、疑似的な主人公として機能してしまうマスター(=プロデューサー=先生)の実体はしばしば忌避されてきた。そしてここで志向されているヒエラルキーのなさ──物語構造における平等性──は、群像劇の性質とは似て非なるものである。
群像劇。それは複数の「主人公」を擁する物語形式だ。芥川龍之介『藪の中』や、その構造を「原作」の一部として取り入れた黒澤明監督『羅生門』などで知られる形式であり、比較的近年の作品であれば上遠野浩平『ブギーポップは笑わない』や、宮部みゆきの大長編(『ソロモンの偽証』・『模倣犯』)などが挙げられるだろう。
そこで志向されているのは、キャラクター・コンテンツのそれとは異なっている。ここには、ある主体を中心としたヒエラルキーの構造があるからだ。
群像劇において主体は、一人称で世界を記述する。物語には主体の知りうる情報のみがプロットされ、それ以外はすべて切り捨てられる。そしてその可知/不可知は、他の主体の眼によって俯瞰され、相対化される。主人公というある種の超越から、一つの世界を固有の世界としてまなざすということ。その連鎖によって、群像劇は成り立っている。
だからそれは、私小説・告白文学に対してメタ的な位置に立っているといえる。「信頼できない語り手」という言葉があるように、どこまでも一人称に留まり、規定されるこの種の物語は、切り捨てられるものに注意を払わない。それは「冷静な」読者の役割であり、主人公(語り手)の役割ではない。そしてそれは、徹底して物語に内在する読者にとっても同じことである。
ひるがえって『ガルクラ』もまた、そのような読まれ方をされている作品であった。井芹仁菜の「私小説」としての読解は主流であるように見えるし、事実、僕も上の節で、そのような視点から批評とも告白ともつかないような記述を行った。やや話は逸れるが、同年同時期に公開されていたアニメ映画『トラペジウム』もまた同様の「読まれ」方をした作品だったように思う。
主人公という統覚に分かちがたく規定された(物語)世界というありかた。しかし『ガルクラ』のシリーズ構成を見渡した時、その図式に回収されえない要素が、躓きの石のようにして立ち現れてくる。
1-5話まではどこまでも井芹仁菜の私小説として成立していた。それは彼女にフォーカスしたエピソードが大半を占める、ということのみを意味するのではない。河原木桃香が「他者」として立ち現れている、という意味において、これらエピソードは私小説だったのだ。そのような仮説を、僕は打ち立てたい。
桃香の存在は、ここにおいて絶えず仁菜を導いていた。彼女の作り上げた「ダイヤモンドダスト」のイメージは、と言うこともできる。桃香のものとしての《空の箱》が、仁菜(の声=歌)に対する彼女の期待と交錯し、仁菜という主体を導く。そのようなありかたが、ここで物語を駆動している。だから上で取り扱ったような5話の対立は、喪われた歌に対する告発であると同時に、導き手としての桃香との決別をも意味していたのではないか。
だから物語の、群像劇という視点においての転換点を、僕は6話に見たい。ルパ・智の二人の視点から始まる本エピソードにおいて、5話のライブシーン《視界の隅、朽ちる音》にキーボードを乗せていく過程は象徴的である。それは新メンバーの存在が、「これまで」を多層化し、相対化することを聴覚的に表しているからだ。
本エピソードはそうして、メジャーデビューという語を物語に持ち込んで来、改めて河原木桃香にフォーカスしたところで幕を閉じる。
そこで映し出されていたもの。それは「反転」だったのではないだろうか。河原木桃香から井芹仁菜に向けられていたまなざしの反転。絶対的な外部──「他者」としての仁菜から「主人公」として捉え直される桃香という主体。そのような作劇が、ここにはあったのではないか。この数話──6-8話は、単なる「掘り下げ」のエピソードとは明確に異なるのではないか。
同エピソード内ですばるが評するように、桃香は分裂を抱え込んだキャラとしてある。陶酔と逃避。その分裂がしかし、一つの統一体として物語を駆動するとき、そこには奇妙なねじれが生まれる。
7話における「解散宣言」が唐突に響くのもまた、そのような構造にかかわっていた。それは陶酔と逃避の相剋から漏れ出した決断としてあった。そしてここで、物語を駆動させるファクターは、仁菜の情感のみではなくなっている。桃香の葛藤もまた、物語全体に介入しうるものとして配置されている。
相剋・葛藤。それは「負けない」ために上京した仁菜の抱え込む「迷い」──序盤において前景化されていた──と響き合う。東京、大資本の摩天楼。そこから逃れ出た場所であるところの川崎を、桃香はメジャー/インディーといった対立に逃走線を引く避難所として見出していた節がある。周縁を周縁のままに留め、そこでささやかな音楽を守り続けること。
しかし「負けていない」ことを「証明」するためには、避難所から出なければならない。今日のラウドロッカーがしばしば口にする「存在証明」は(*2)たぶんにマチズモの要素をはらんでおり、ここにも、そうした文脈が流入しているといえるが(そのもの、ではない)、ある種の強度を獲得しえなかった音楽が、滅びに抗するのは難しい。そして何より、井芹仁菜のような人間を救いうるのは、そうした「負けてなさ」を「負けてなさ」として歌い、証明しつづけるような音楽である。
仁菜が「他者」として桃香に突きつけるのは、つまりはそういうことだったのではないか。「負けてなさ」の証明と、それと深く結びついた強度のある音楽に対して責任を負うということの要請。そして、その延長線上にあの告白はあったのではなかったか。
むき出しの主体と主体が触れあうような位置。「わたし」と「あなた」の区分を前提とした有限性と有限性の交感。そのようなものとして。だから「恋とか愛ではなく、より崇高なもの」という表現は、ここでは適切ではない。それは恋でも愛でもあり、そして物語的に崇高なものでもあったはずなのだ。
そしてそれをもって、本作は「主人公」という特権的な位置を放棄したかにみえる。あらゆるキャラが、世界を駆動させる固有の主体としてはもはや機能しない──否、トゲトゲに属するすべてのキャラが固有の主体として機能するがゆえに、特定の主体に依拠した秩序が生まれえないような物語空間の現出。それを端的に表していたのが、あの10話だったのではなかったか。
帰郷、というより決着を主題とする10話はあらゆる意味において重要なエピソードとしてあり、その解題を行えばそれだけで記事が埋まってしまうほどに「濃い」。しかしさしあたり、ここではそれが「掘り下げ」として機能していることに注目したい。
それは「主人公」であったはずの井芹仁菜の固有のエピソードとして──カタルシスではなく、断片的な「解決」として存在していたかにみえる。それは4話(すばる)や9話(智)がそうであったような仕方で、仁菜という主体をみたび記述する試みだった。無論、本エピソードはこれまでに仄めかされてきた、高校時代の回想の補完としてもあるが、それは8話においてすでに行われている。このエピソード固有の特異性は、やはりその断片性にあるのではないか。
仁菜の相対化。10話が抱え込んだそのような機能によって、トゲトゲのメンバーは、すべて固有の主体として機能するようになる。これまでの細かな描写によって作り上げられた主体が、物語を駆動させる主体として立ち現れてくる。そしてそのような予感の横溢した、全体的なカタルシスをもたらすエピソードとして、11話は完成されていた(*3)。
11話、Aパート後半。「なぜ歌うのか」という問いかけに、各メンバーが答えていく。それはこれまでに積み上げてきたスタンスの表明であると同時に、未来に向けられた宣言でもあった。そしてそのうえで、このエピソードは新生ダイヤモンドダストのライブシーンを映し出す。
ソリッドな光が交錯するその演出がしかし、トゲトゲのそれとは明確に異なっていることをわれわれは直感できる。観客席からステージまでを均等に貫くカメラがふと正面からボーカル(ヒナ)を抜いたときに垣間見えたその均質さ、丹精さがこちらに突きつけてきたのは「異質なもの」としてのキャラの姿だった。なぜか。それは全き幻想ではなく、全き現実そのものとして表象されていたからだ、とここでは言い切ってしまおう。
上に引いた例を用いれば、ダイヤモンドダストのライブシーンを貫いていたのは「嘘」を排除する、すべてが現実において、現実のままに進行するような映像文法だった、といえる。
それはその後に描き出される、トゲトゲの音量確認のシーンでも同様だった。緻密な考証とたしかな3DCG技術に下支えされた端正な演奏シーン。しかしそれは、スタッフロールが流れ切った後に、決定的に変質する。ここまでそうしてきたように。
エフェクト、フィルター、それは「編集された」映像としてある。すべてが幻想に変じる一瞬を連ねたものとして。そしてその光は、ひるがえってメンバー自身を捉え返す。回想にメッセージが重なり、「ぶちこめ」の文字、叫びとともに書き消える。奇蹟が、束の間過去を切断する。
それが幻想であることを、誰もが知っている。けれどあらゆる過去からも、そして恐らくはあらゆる未来からも解き放たれた一瞬の幻想の、奇蹟の、その美しさの前には、いかなる言葉ももはや通用しない。この世界自体が、そうしたMVに、音と表象の連なりに覆われゆく、そのような時間の現出。
かくして物語は臨界点を迎える。雨曝しの野外ステージに束の間顔を覗かせた星空に浮かぶ《空白とカタルシス》の文字が、一つのエピソードの終わりを告げている。しかしそれは、シリーズの終わりではなかった。
Ⅲ「はじまりの目撃者と救済をめぐって」(12-13話)
『ガルクラ』の12-13話を、僕はまだ遇せずにいる。
それは決定的敗北でも、決定的勝利でもない、何かもっと漠然としたものを指し示していた。オープンエンド。そのような言葉で、それを捉えようとしたこともあった。しかし、何か言い足りていないようにも思う。
メジャーデビューによってレーベルの悪意に圧殺されるのでも、メディア的存在として大衆のまなざしに振り回されるのでも、商品として劣位に置かれ追放されるのでも(半分くらいそうした文脈を迎えていたようにも感じるが)、あるいはダイヤモンドダストを見返すのでも、11話で大挙して押し寄せた熱狂的なファンを囲い込むのでも、独立した勝利感に酔うのでもなく、やや別のところに、このアニメはたどり着いた。あるいは、たどり着こうとしている。
一つ言えることは、それがこれまで用いてきた仕方での、決定的な「終わり」ではない、ということだ。13話を始めたのがOP《雑踏、僕らの町》であるのと同じ仕方で、13話を終わらせたのはED《誰にもなれない私だから》だった。それはライブシーンによってエピソードを終わらせてきたこれまでの歩みとは明確に隔たっている。
ここまでに、僕は表象されたトゲトゲのライブシーンを「奇蹟」という言葉で呼び表してきた。その前提を受容し、その前提に立つならば、ここで行われていたのは奇跡の解体、と言えるのではないか。
川崎の向こう、東京を覆っていたのはトゲトゲではなくダイダスの音楽だった。街に溢れる《cycle of sorrow》。それは端的に、東京がトゲトゲの町ではないことを示している。川崎から東京への越境、あるいは一撃は、ここにおいて挫折を被っている。それを指して「敗北」と呼び表すこともできるだろう。メジャーの、音楽を流通させるというフィールドにおける敗北。だがそれは、レーベルの脱退によって回避されることになる。
本作における「負けなさ」が、特有の意味を付された単語である、というのは、それが主題化されていることからも明らかである。「負けなさ」は繰り返し発される中で、具体的な秩序から引きはがされてきた。しかしそれを再び炸裂させるための手段であったはずの「奇蹟」は、もはやここにはない。決定的勝利も固有の勝利も、それは呼び込まなかった。
本作がどこに行くのか、という問題がある。続編はいまだ未定だが、恐らく現実のバンド「トゲナシトゲアリ」の活動は続いていく。その中で、表象された彼女たちの勝利は、敗北は、「間違ってなさ」は、どこへ行くのだろうか。
すでに作品の中に答えがはらまれている、というのは、現状もっともやさしく、かつ力強い解答であるように思うし、事実、われわれに出来るのはそうした読解のみである。表象された事柄以上の「事実」は出現しない。13分割された、24分の連なり。それをそのものとして享受することしか、視聴者としてのわれわれには許されていない。
見ること、聴くこと。どこまでも内在にとどまる、その繰り返しの中に、救済の予兆はあるだろうか。
奇蹟が過ぎ去った後の世界に、僕たちは生きてしまっている。それは12-13話の景観そのものだ。スタジオの外側に広がっていたのは大部分が自分とは何の関係もない世界で、しかしそこには、歩むべき道も、帰るべき家も、中指を立てるべき敵も、小指を立てるべき雑踏の人々も、不可能性も、絶望も、希望も、怒りも、悲しさも、何もかもがあり、また、ない。存在を存在として立ち現れさせるのは彼女たちで、そしてわれわれでもある。しかしそうした主体のうちにあるのは、世界のすべてを手にしている、という全能感でも、世界のすべてを突き崩せるという破滅願望でもない。まして、強固な地上にただ落下する絶滅の予兆でもない。
それはもう一度あの奇蹟を望むということ。ひび割れたイノセンスを抱えたまま、過去の亡霊をまなざすということだ。その追懐において、一歩ずつ進んでいくということだ。そのようにしてしか肯定できない生が、そのように言えてしまう生が、たしかに存在した。存在する。存在しつづける。僕は。僕らは。あるいは。
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