【コラム】『ツイ天』読書会から──異教の神、あるいは「日本の天使」の沈黙についてのおぼえがき
2024年7月21日。SNS「X」において、一つのスペース(音声交流)が行われた。それはかつててらまっと氏によって発表された論考『ツインテールの天使』──〈日常系〉アニメ、あるいはポスト3・11の風景についてのもの──を、著者を交えながら読むというもので、5時間以上におよぶ長丁場の、しかし充実した会となった。
そうした会であるため、議論は時に論考自体から離れて多岐にわたったが、その中でも、とりわけ重要だと思われるのは、日本的空間と「天使」の所在・起源をめぐる一連のやり取りである。著者がかつてなした「あずにゃんは天使である」という提唱。それが、「天使」の伝統を持たないはずの日本的空間において、いかにして実装されるのか、ということ。本スペースはそこにも踏み込んでいたように思う。
以下に引くのは、司会である壱村健太氏による発表を受けてのやり取りの一部であるが、その前に、前提を確認しておきたい。
壱村氏が主張したのは、震災以後、東浩紀などの論者によって提起された「震災以降、ぼくたちはばらばらになってしまった」というテーゼそれ自体が抱え込んでしまった「破綻」の存在であった。すなわち、元々一つでなかったはずのものが「分裂」するという表現自体の、矛盾の指摘である。
日本列島、あるいは近代以降統一的なものとして成立した日本という「国民国家」は、しかし、決して「一つのもの」ではなかったのではないか。分裂について考えるうえでは、むしろ、「一つのもの」という幻想を可能にしているメディア(媒介物)の位相について思考するべきではないか。そのように壱村氏は言う(あるいは、言っていたように思う)。
それに対しててらまっと氏は、「地震」という現象でもって応答していた。惑星的問題、あるいは日本「列島」の、否応のない(=根源的に受動的な)問題であるところの「地震」は、さまざまな想像力の志向-対象としてまなざされてきたが、そうした想像力の先端として、今日的なオタクカルチャーは解されるべきではないか、と。
それは本人が口にするように、『ツインテールの天使』からの明確な「転向」である。3・11を取り扱いながら、普遍の問題へと接近し、「日本」という問題(=椹木野衣による「悪い場所」の問題)をスポイルしていた『ツイ天』への反省。
そうした前提を踏まえつつ、以下のやり取りは交わされていた。
「キリスト教的な語彙」がただちに破綻を呼び込んでしまう、ということ。それは「天使」という問題設定それ自体の限界性を露出させる。そして「神」においても、また。
「ヘブライの神」が「ここ」にはいないということ。神の沈黙。無論、それは西洋文明(およびそこに内在する信仰者たち)が常に向き合ってきた問題でもあったろうし、震災以後しばしば問題とされてきた「偶然性」と神の問題を直截的に重ね合わせた、カンタン・メイヤスーのような思想家も存在している(『亡霊のジレンマ』)。しかし「神はいない」と日本において、日本語によって言明したとき、そこにはなにか、特有の文脈が生まれうるように思う。ここで捉えられていたのは、つまりはそのようなイメージではないか。
ここではさしあたりの回答として、「神」が「天照大神」──天皇的なもの──ではないか、という仮説が、葛藤を感じられるかたちで提起された。
だが僕は、あえてそこからは離れたいと思う。というのも、こうしたイメージの連鎖(天使⇒日本列島という「場」⇒天上界)からは、西洋をまなざしながら、それとはまったく異なるものを生み出してきた国内思想・日本哲学の構造を析出しうるように思うからだ。
日本哲学の大家、西田幾多郎は『善の研究』以後、意識そのものである「場」をめぐる思索を展開した。それは最終的に「真の無の場所」と呼ばれる、究極的な一点(領域?)へとたどり着くというが、それはある判断の意識そのものを成り立たせる、主語と述語の包摂関係に注目することで捉えられるものであった。
そして、この「たどる」作業が一つの到達を迎え、停止する地点こそが「無」である。それは絶対矛盾的自己同一の〈静〉であり(中沢新一『精霊の王』)、こう言ってよければ、これまでの言葉が停止する地点でもある。
「我も神もない」(西田幾多郎『一般者の自覚的体系』)意識から、一切を始めるということ。それはこの世界と私とが一様に溶け出した、漠然とした境域を想定することでもあるのではないか。そしてそれは、一神教的神の想定から知の体系を確立させ、「現れ」の一切を根拠づけてきた西洋思想の歩みとは、存在様式を異にする。
中沢新一が指摘するように、西洋哲学を実質的に開始させ、また規定したプラトンの「イデア」は、同一性を伝達する機能であるという点において一神教的なものであった(『精霊の王』)。だが西田が想定しているのは、恐らくは多神教的世界観である。同一性を伝達するのではなく、それを可能にする構造「において」思索を立ち上げるということ。
そうした前提はまた、あずにゃんの還る場所を指し示しているように思う。どういうことか。
これまでの言葉が停止する地点としての「真の無の場所」の深閑(=「〈静〉の寂光」『精霊の王』)。それは対象こそ違うものの、かつて、中沢新一その人が『チベットのモーツァルト』において取り扱ったものでもあった。
そこで対象とされたのは『地獄篇』である。奇しくも、『ツインテールの天使』を締めくくるのもまた「現代の地獄篇」と名指される「ルイズコピペ」であった。そしてこの奇妙な符号のうちに、僕は一つの批評的契機を見る。
中沢は地獄篇を「音」の横溢と、それが静寂へと向かう過程についての作品であると言う。ここにおいて天国は音も言葉もない絶対的な静止、静寂のうちに成立した境域である、と。それは救済のイメージを胚胎しており、『ツイ天』の主題とも響き合っている。
そしてここにおいて、あずにゃんが生起し、還る場所が明確になる。静寂に包まれた天上である。
あらゆる言葉、あらゆる音を拒む境域と地上との往還。そのようなものとして「天使」としてのあずにゃんは理解されるべきではなかったか。
そしてそれは、取りも直さず「天使にふれ」たわれわれが、最後の瞬間に向かう場所でもある。救済の「場」の発見。そのような契機が、ここにはある。
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