はじめに~発達障害をオープンにしてこれまでの気付きをシェアしたい~
「発達障害をオープンにして、今までの人生で得た気付きをシェアしたい」
ずっとそう思っていた。
私は現在、某企業で正規雇用で働いているが、いわゆる障害者雇用である。ただし基本的に自分で自分の障害のことを同僚に話すことはない。
私が障害者雇用であることを知っているのは、人事と私の直属の上司だけなのではないか?
人事から上司に、「私は内心、障害のことを言われたくない」ということが共有されたからたからだろうか、上司も私に1度も障害のことを聞いてきたことはない。
発達障害が発覚したのは33歳の時であった。ただそれまで問題がなく過ごしてきたのかと言われれば、決してそうではなく、中学生と高校生の頃に不登校の時期もあったし、大学ではだれも友達ができなかった。
私自身も自分が社会に適合するスキルがないことは重々理解していたものの、その理由が「発達障害があるから」だとは思っていなかった。
実は私は、幼少時代に親の仕事の都合でアメリカ合衆国に住んでいた時期があった「帰国子女」である。帰国子女が日本人の集団で苦労している人が多いと聞いていたため、私がうまくいかない理由は「帰国子女だから」と考えていた節があった。
中学校の頃はスクールカウンセラーとのカウンセリングが2週間に一回あり、そのカウンセラーからも発達障害の可能性は指摘されなかった。
そのほかにも高校時代に偏頭痛と睡眠の問題を抱えていたため、投薬治療も受けたが、そこでも発達障害について指摘されることはなかった。
これには私の発達障害が重くないからという見方があるだろう。
また発達障害は「谷間の障害」と言われ、福祉によるサポートが受けられない障害だったため、私はしかるべきサポートが受けられなかっただけという見方もあると思われる。
ただしどの見方が正しいかにかかわらず、自分で自分を内省し、社会に適合するために「改善をしなければならない」と考え、自分なりに努力、工夫をしてきたのは事実だ。
幸運にも大学付属校に高校受験で進学したこともあり、受験勉強から解放されたゆえに得た自由な時間を、人生勉強に投資した。
本も読んだし映画も見た。
アメリカにホームステイにも行ったし、学校という集団を超えて人とかかわるようにもした。
紆余曲折もあったし、精神的に落ち込んだことも、自信を喪失したこともあった。
そんなほぼどん底まで落ちたことを今、振り返ると、「思えば遠くまで来たものだ」と、自分のことではあるが、感慨深くなるのも事実である。
私が「ほぼどん底」まで落ち、ここまでたどり着いた経験をシェアすることで、発達障害の診断が下りているか否かを問わず、「現状を変えたい」、「よりよい人生を生きたい」と思う人に、何かしらのアドバイスができないかとずっと考えていた。
もちろん、大きな悩みなどがないが、「もっと自分の人生を充実させたい」と思う人にも。
ここで私の現在の経歴を列記すると・・・。
障害者雇用だが正規雇用である(無期雇用転換でもない)。年収は約700万(2023年)。
契約上異動もあり(毎日コンサータを服用している関係から通勤に車の運転が必要な拠点への転居はないことになっている)、2024年4月に異動内示を受けた。
総資産850万。830万円は米国株であり、その半分はS&P500のETFのである(ティッカーシンボル:VOO)
最初は障害者雇用ではない一般雇用で就職した。それは最初に就職したときは自分に発達障害があることを認識していなかったからだ。
しかし大学や大学院を卒業し、新卒切符を使って就職したわけではなかった。
私は新卒採用切符を捨て、司法試験を受けていた。今は法科大学院を終了しないと原則として司法試験は受けられないが、当時は大学3年から受けられ
た旧司法試験がまだ残っていた。
私は大学卒業後就活をせずに旧司法試験を受けていた。弁護士になりたいという希望もあったが、大学時代に1人も友人ができなかったため、就職活動で内定をもらえる自信がなかったという消極的な理由もあったのは事実である。
結局旧司法試験を25歳まで受け、その年に法科大学院に進学をした。そして法科大学院修了後、再度司法試験を受験したが、それに受からず、30歳で合格をあきらめ就職した。
そして私が就職したのはブラック企業であり、慢性的な人手不足でとなっている企業だった。30歳で職歴がない司法試験崩れを採用する企業は、訳ありなことが多いのだろう(すべてとは言わないが)。
その企業は社員数が10人台の中小企業で、とにかく、社長の意向で何もかも決まる、社長は絶対という社風の企業だった。労働基準法よりも社長の意向が優先され、有給休暇残日数は翌年に繰り越せず、残業代も雀の涙の固定残業代以外にでなかった。
ただこの社長は心理学や精神医学に若干素養があり、私はこの社長の業務命令により精神科を受診したことで、心理テストを受け、発達障害が発覚したのだった。
主なきっかけは車の運転が苦手で、事故を頻繁に起こしたこと。幸運にも人身事故はなかったが。
この社長は、私が発達障害の診断が出た直後に、堂々と退職勧奨を行った。
仮に退職しない場合は給与を切り下げると。
私はこの社長に辟易していたし、これ以上、給与を下げられると生活できなくなるので退職することにした。
余談だが、退職後、失業給付をもらうためにハローワークに行き、上記顛末を話したところ、この会社は、ハローワークで求人を出せなくなったらしい。
30歳初めて就職した会社を、2年弱でやめた私は、どう考えても就職活動で苦戦することが目に見えていた。そのため障害者手帳を取得し、障害者雇用での就職を並行して考えることにした。
また、発達障害はうつ病や適応障害と同じ、精神障害にカテゴリーされるため、離職中の就活は非常に印象が悪かった。
そこで就労移行支援事業所に通所することにもした。
上記ブラック企業をやめて約7か月後に、東証一部上場企業に障がい者雇用で就職で決まった。人事部門に事務職として。契約社員だったが、努力次第で道が開けると採用面接にて言われたこともあり。
ただその会社は、契約社員が正社員になるためには、「所属部門以外の部門の部門長」の推薦が必要だった。これは事実上、営業担当以外、正規雇用になれないことを意味しており、私のような事務職は正規雇用の可能性が限りなく低かった。
そこで就職して2年半経過時に、再び転職活動を行った。
転職先はベンチャーのような風土があった外資系の製薬企業だった。そこの人事部門のポジションに採用された。
依然として契約社員での採用であったものの、この外資系企業に転職したことで年収が上がった。
明らかにスペック採用で、法定雇用率(法律で定められた、障がい者手帳保有者を雇用しなければならない比率)があるために(やむなく)採用したという感じだったが、手を上げればいろいろな業務を担当することができた。
そのため、職務経歴書に加筆できる経験を多くすることができた。
そして2回目の契約更新の際に、「今回が最後の契約」になることが伝えられたため、転職活動を再開し、現在の企業に人事職として転職することができた。
6年ぶりに正規雇用での採用にもなった。
この企業ではこれまで他企業で得たスキルを深くすること、これまで未経験だった分野のキャリアを積むこと、両方なしとげることができた。
異動が多い企業で、「ジェネラリスト」養成に力を置いている中で、私はこれまで、ジョブ型雇用の契約社員(契約社員は切り取った業務をアサインするため、日本でも総じてジョブ型雇用である)として複数の企業で働いてきた。
そのため私には、他人には代えられない専門性を持っていたため、非常に重宝されたし、他部署の従業員からの評判も良かった。
そして今年の4月に経営企画部に異動となった。
異動してから、私はマスキングなしの取締役会議事録が読めるようになった。
おそらく幹部候補とまではいかなくても、ジェネラリストにして、ポジションを上げていってもいいと思っている人財という評価なのだと思う。
以上が私の経歴である。
ここまで経歴を書いてきて自分で思ったのだが、本当に自分はぎりぎりセーフだった。
障がい者雇用で3回目に採用された企業で正規雇用になれたが、その当時、私は37歳だった。
おそらく正規雇用になるギリギリのタイミングだったとも思う。
まぎれもなく、発車ベルが鳴る電車に駆け込み乗車するようなキャリア形成だった。
個人的に定期試験の「一夜漬け」が嫌いだった。
「一夜漬け」で勉強をし、午前5時ごろに範囲が終わらないことがわかったら絶望すると思ったから。
しかし私の人生、ずっと一夜漬けで帳尻を合わせるがごとく。ギリギリのところで駆け込みセーフ。
本当に自分は社会性がないのだととつくづく思う。
小さいころから変わり者だった。血の気が多いと言われたこともあった。
手を上げてしまったことも何度もある。
一人でいるのが好き。突拍子もないことをする。
しかし「帰国子女だから」「頭がいいから」ということで、大人から大目に見てもらえるところがあった(同級生にはとても嫌われたが)。
好きになったり、興味があることは徹底的にのめりこむ。
実は私は親からほとんどテレビゲームを買ってもらえなかったのだが、
親はテレビゲームをするときの目の色が尋常ではなく、これは中毒になると危惧したのだという。
親には感謝してもしきれない。
発達障害の診断は、能力の凸凹が大きく、社会への適合が難しい人に下るもので、「あなたは社会に適合する力、社会をサバイブする力がもともと高かった」と言われればそれまでなのかもしれない。
仮にそれが正しいとしても、私がほかの人と違うところはどこなのかを意識すれば、参考になるところはあるのではないだろうか。
むろん、前時代的な「若いうちには勝手でも苦労をしろ」という精神論を主張するつもりはない。
余談だが私はこのような精神論が吐き気がするほど嫌いである。
おそらく亡くなった祖父が、元予科練で特攻隊だったということがあるのだと思っている。
祖父は「順番待ち」の間に終戦となったが、当時の「天皇のために命を捧げろ」、「欲しがりません勝つまでは」という精神論の教育を受け、性格がゆがんでしまってしまった。
このnoteでは、前時代的な精神論とは真逆の「いかに楽して、コスパ良く社会でふるまっていくか」ということを中心に話していきたいと思っている。
本noteは、自分が普段は忘れている、あるいは忘れてしまいたいことにあえて光を当てて書くことつもりである。
なお本noteでいろいろな例示をだしているが、どこかで聞いたこと、以前かじった内容が主であるため、誤った情報が含まれているかもしれないが、ご了承をいただければと思う。
もし可能であれば、コメントで指摘いただけるならばありがたい。
またこのnoteでは社会批判もしないつもりである。
近年、発達障害の診断を得て、障がい者手帳を取得する人が増えている。その理由として「寛容性のない社会になったから」、「個性を受け入れられない器量の小さい人間が増えたから」などと言われている。
私個人としては、「発達障害」の診断がある人の社会的地位向上を目指しているわけではないため(誰もが個性を受け入れられ、生きるのがつらくない社会になってほしいとは無論、思うけど)、これらの意見についても特に意見を述べることはない。
ただ僭越ながら言わせてもらえば、私は不登校になった時も、司法試験に落ちて合格をあきらめた時も、そして発達障害があるという診断が下っても、決して卑屈になることはなかった。
必ず挽回して見せるというように、肩に力が入った状態でもなかったのだが、一歩ずつ、現状を改善していこうという気持ちを終始持ち続けていた。
福祉のサポートを受けられても、社会が一定程度理解をしてくれても、自分自身の足で立ち上がり、歩いていかなければ何も変わらないのは事実ではなかろうか。
このnoteは、発達障害の診断が下り、それまで勤めていた企業を辞めざるを得なくなった過去の自分に、最短距離で改善できるように、道しるべとなるような内容にするつもりである。