🌙疑われる恐怖、疑われる必然さ
誰かが書いたやつを月が書き直してます。
僕たちはこれでも一応、1ヶ月の入院、その中でほぼ毎日のカウンセリング+1年間頻繁なカウンセリングを受けた上でDIDの診断が降りている。
それなのに度々誤診が不安になるのは、疑われてきたから。
昨日、人格を懐疑する言葉を友人にかけられた。
(基本的に人格がいることは、同病ではない人には隠しているけど、その人にはタイミング的に話さなきゃならない場面があったので、その人は知っている。)
ただそれだけなのに、苦しかった。
ただ単に僕らという1友達に過ぎない人間に対して、真剣に考えてくれたということを超えた苦しさがあった。
アイデンティティが揺らぐような、自己認識が揺らぐような、強烈な不安に襲われた。
彼に言われたことがある。「波さんは何者かになりたいんだよ」って。
これは人格云々の話で言われた言葉ではないけど、その言葉を改めて咀嚼した。
何者かになりたいという言葉を、単に思春期的な、プライド的な雰囲気で受け取っていたし、そう言われても仕方ないなと思っていたけれど、もう少し深刻な「何者でもなさ」を
つまりアイデンティティの欠落を自分は覚えているのかもしれないと思った。
それがDIDという病で埋められるのなら、パニック障害やら不安障害やら、自閉症やら沢山のもので自分を認識できるじゃないかとも思った。
でも、
結局"dissociative identity disorder"
なのだから。
あと、"自己"より、"人格"のほうがアイデンティティがある。
つまり、中に居るみんなのアイデンティティに縋って生きているのが現状なのかなと思った。
よく考えてみれば、基本人格が認識できない状況下で、人格まで否定されると、哲学的ゾンビみたいな恐ろしさが残る。
ただでさえ記憶が無く、自分が続いてる感覚もなく、現実感もなく、その上で"人格"も演じてるだけでしょと言われると、あとは何が残るんだろう。
なぜ基本人格が認識不可能なのか。
居なくなった、とか、寝てる、とか、色んな言い方ができるしされているのは分かっているけど、敢えて"認識出来ない"と言う。
その理由はわからないけれど、空っぽの自己だけが現実だと言いたいのなら、それってあまりにも怖いことじゃないだろうか。
🌙