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短いの

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短いの。140文字。
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#note初心者

ネットは物として存在しない。 空気のように目に見えないものである。 だが私は、ブログを訪れた際に目に入る 「一定期間更新がないため広告を表示しています」という文字に、 持ち主のいなくなった家に積もったホコリを見ているような寂しい気持ちに似たものを感じるのである。

面白い。生放送のゲーム実況って、その人の見ている世界を一体化して見られる経験である。人が物事をどう見ているのかは、相手が声に出してくれでもしないと正確には分からないが、ゲーム実況はうそを言っている訳にもいかない。 限りなく純粋な「その人の目」に、私もお邪魔できるのである。

歩きスマホは、スマホの形をしているから嫌悪感を持たれるのではないかと仮説を立てた。 百年昔も、きっと「ながら」はあったし、二宮金次郎もやっていた。歩き勉学(読書)である。 私たちは、スマホで本を見ようがゲームをしようが地図を見ようが「歩きスマホ」である。

言葉を文字に表せば温度が可視化できるという事は、 裏を返せば素敵な心も目に見えるようになり、記憶を物にして残せるという事である。 優しいひとの優しいことばは、心だけでなく確かに存在するかたちとなり、 お守りのような力を発揮する。 だから、言葉はすごいのだ。

たまーに模写をする時に思う。 なぜ、人は人間を正しい形で(解釈は違えど)見る事が出来ているくせして、 それを書こうとしたとたんに頭蓋骨が馬鹿みたいに大きくなったり、 丸が楕円に変化してしまうのだろうと。 不思議だ

待っている。 この立ち込めた厚い雲が消えた先に見える快晴を。 絶対に現れる青空を。 ずっと曇りなんてことはないから 良くも悪くも、永遠はありえないから

試しにやってみればいい。 つらくてつらくて忘れられない事があるあなた 「どうせ忘れられない」って積極的に忘れないようにしてない? 試しに忘れてみようとあがいてみなよ そこでやっと「忘れられない」って言えばいい。

意外と人を引き付けるものは多様なのかもしれない。 顔が全て。なんてよく切れる言葉があるけれど。 耳が惚れる事もあると思うけれど。 「一目惚れ」って言葉は有名だけど、「耳で惚れる」類の言葉を知らないのは 言葉に疎いからだろうか。 別に見えるものから以外でも惚れちゃうことなんてあるさ

強い感情に出会った時殻がひび割れるような、そんな感覚になる。 本気で恋をしたことがあるだろうか。相手はなんだっていい。 こころから悲しみに浸る時、世界は重く、暗く、よどむ。 同じ世界を生きているようで、生きる人が違えば 強烈な感情は自分の中の知らない部分をノックするようなものだ

強がることは強さではない。 弱みを見せる事は弱さではない。 こうしてみるとまるであべこべで面白い。 本当の強さはなんなのだろうか 飾らないありのまま。真っ裸を見せられることだと思う。

『誰か』という読者を見据えて言葉を紡ぎ、投げかけられているのか。 この文章は「壁打ち」になのか、そうでないのか。 自分でわかってもいないのに、人に届けるなんて。 何がしたいのかを考えなくては でもいいさ、やりながら、もがいてもがいて、わかってくることもある。 そういう時ってあるよ

皆がそうかは分からない 傷つく分だけ強くなれる。 そう信じているから耐えられるのです これは一種の命綱 ただでは起きないという意地が、この概念に縋り付いている。

他人の気持ちは、つまるところ分からない。 「貴方、こう思っているの?」と聞かない限りは分からない。 訂正、聞いても「そうだよ」と言いながら内心「ちがうよ」と返しているかもしれないし、 第一自分の気持ちすら分からなくなることがあるにんげんに、 他人の気持ちは推測が精一杯

伝えたい。と思う事は臆せず書いて良いのだ 何かを書く時「こんな話何番煎じか」と思う事があるかもしれない。 大丈夫。世に回っている大抵のメッセージは誰かが既に書いている。きっとね 自分が元祖の発言なんて滅多にない それに、その話をまだ知らない人が1人いたら、出涸らしも輝くのである。