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短いの

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短いの。140文字。
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#生き方

5行エッセイなるものがあると聞きやってみる事にした。 1行目に主題、2.3.4行目は本文。5行目に再び主題の構成だそうで。 140文字制限のつぶやきにぴったりの構成ではないか。 そして面倒くさがりで記事を書きたくない人にもぴったりである。 つまり自分のことである。あ、主題じゃない

あと、夜におセンチな音楽を聴いて、こうしてその音楽に影響を受けまくったおセンチな文章をだらだらと綴ることも、誰しもがやれそうな恥ずかしいことなんだからほんと面白い。 そう、今のことね。

あのですね 夜に書いたラブレタ―はとってもこっぱずかしいものになります。 夜にした喧嘩は盛り上がります。 夜に書いた文はよく分からない事があります。 夜は、人の気持ちを高ぶらせ、乱します。 そう、夜に気持ちを外にだすことは、危険! そこにいる、貴方に言っているんだよ。

変えられない他人にやきもきして神経をすり減らすのはとても不毛ね でも、自分もなかなか変わらないから大して変わらないんだよね 矢印は自分へと向かうから、やる事は常にある かえなきゃいけないことがいつまでたっても変わらないってだけ それじゃいけない。これじゃかわらないのに。

自分がつらい時は自己中心的思考が最高潮だから、「私が今一番くるしんでるの(ぴえん)」なんてやつらが対峙したら、きっと対してないよ。 なんも見ていない。お互い向き合っているようで、背を向けて自分の事を鏡で見ているの。腹立つな。

意地を張る事を諦めたらもっと楽になれるのに なんで自ら苦しみに行ってるの? 毎日辛いのは諦めを諦めきれないから。 まだ未熟で子供な自分が、成長の為に脱皮をする目的の葛藤ともいえる この苦しみの連鎖が、徐々に自分を諦められる自分へと導いているともいえる 変化に時間はつきものなんだよ

自分の体験を切り売りして書くような人ではない。そんなことは性に合わない。それが伝えたいことに繋がらない。すごい。いつも過去が飛び出してくる人。自分は、現地生産している。確かに思い出も体験も沢山あるけど、いつか底を尽きるものを売るのははなんだか違うと思うの。いつか変わるかね

最近「変えられる範囲は自分まで」という話を聞いていたく感銘を受け、何でもかんでも「これは変えられない」と呟いてきた。でも、変えられない事だからと言えども犬に手をかまれたら痛いのです。犬はわしの手を噛まないように変えられないね。でも、わしの手は痛いね。そういう事よ。

路上で歌っているアーティストが立ち止まって聞いてくれた人の好みに合わせて声や歌い方を変えたりしないのと同じで、この場所は自分の路上ライブである。お辞儀はすれど、歌う歌は自分で決める。そういう場所でありたいと、無人である今思う

試験や資格の為に勉強して備える事は、生きる事と少し似ているところがあるのかも。暗記は地道で決して快楽とは離れたところにあるけれど、耐えた分だけ何かしらを得られる。人生で体験する苦しみや悲しみ、悩みも、次のテストの予習になる事もあるかなと。「ここ進○ゼミでやったところだ!」って

自分が心の底から何を考えていようと、行動に出さないとその人は何も知らないし気づかない事は、ある意味幸せである意味とても残酷。それをどっちと思うのかは自分次第だから人生って面白い。どうにもならない事もあるけど、どうにかできる部分は思う存分都合の良いように作り替えていきたい。

人と人は、繋がっているというけど、それは良い意味で使われないといけないと思う。今は悪い意味で使っている。ただの他人と繋がっているなんて、勝手な傲慢の嘘で苦しんでいる。繋がってなんかない、何もかも通じ合う義務はない。人はあくまで独立した個人、寄り添えても1つになることはできない。

悔しいや悲しい、なんで自分ばっかりとかいろいろ思う事はあるけど、吾輩は怪獣なわけよ。そういうしょげたしなしたした気持ちは全部バリバリ食べて、養分にしてでっかくなってやっから。ただでおとなしくつぶれると思うなよ。