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幸せ

彼女は可哀想な人のための自分でありたい、そうして生きていきたいとそう話してくれた。

可哀想な人とは誰だろうか、彼は思った。もし、五体不満足で我々の価値観からしたら満足に生きれてはいないのでは、と思う人がいたとする。

果たしてその人は本当に可哀想なのだろうか。その人はその人が生まれたその境遇で自分のために自分なりの幸せを持って生きている。

その人をただ、可哀想だからなんて理由でなにかしてあげるのは、ただその人を否定し、“してあげた”という自己満足を得るだけなのかもしれないじゃないか。そう彼は言った。

彼は、何故か、誰かを助けたいなんて傲慢なのだろうと、そう思えてしまう自分が悲しく感じた。

彼女は、そうかもしれない。と言った。私が好きなのは人のためにある自分の姿でしかないのかもしれない。

少し落ち込んで、彼女はそう話した。

ならばどうすればいいのだろうか、人のためにありたい自分すらそれで否定してしまっていいのだろうか、彼は悩んだ。人のためにありたい自分、確かに自己満足の塊であり、それを否定してしまうのは容易であった。

人が笑顔になるのが私は好きなのよ、と彼女は言った。そう言って少し悲しそうな表情で微笑む彼女は、彼の言葉を真に受けて、自分がかなしくなっていたのだろう。

しかし、そんな彼女は彼には美しく写った。僕の嫌いな自己満足でしかない、そのはずなのに、彼は困惑した。

そうだ、違う、自分本意だから間違い、なんてそんなものでは無いのだ。相手を可哀想なんて思うのは間違いではない、それはそもそも自分の価値観で、今まで生きてきた自分そのものだからだ。

しかし可哀想なんて思って相手と接するのは間違いだ。可哀想なんて思いは、相手が必死に生きているその様すら否定してしまうことに他ならないのだから。

相手は相手であり自分は自分だ。相手がほんの少しでも握りしめている一握の幸せがあれば、それを共有し、それを守ってあげれる人になりたい。それが自己満足でもいい。

他人に自分の“可哀想”なんて価値観を押し付けないことが大切なのだ。

そう彼は思った。

人のためにある自分が、その行動の核となるのならそれはとても素敵じゃないか。

彼は言った。

少し楽になったような表情で笑う彼女は、どこか整理がついたようだった。

相手本意のつもりで自分本意になってしまうことなんていくらでもある。それが相手を傷つける時もあるのだ。

相手のためにある、なんて綺麗なことだけで生きていきたいなんて妄想かもしれない。

ただ、それを追い求める姿が、そうありたいと思うその気持ちが、人をいちばん笑顔にさせるのだ。

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