頼ること、助けてもらうこと

私にとって、「人に頼る」というのはとてもハードルが高いものだ。

これまで30年以上も生きてきたのだから、その中で人に頼ってきたし、
助けてもらってきた。
意識する、しないに関わらず、これは事実だと思う。

ただ、自分の中で意識を持ち、「何を頼ってもいいのか」、
「どのくらい頼ってもいいのか」を考えて、的確にお願いをして、伝えて、助けてもらって、お互いによかったね、となったことは、
記憶の中には見当たらない。

(文章にしてみると、現実世界の人間関係でそんな風に上手くいくこと、
思った通りに自分も相手も動くこと自体、あるのかも分からなくなってきたが。。。)

そして、私は自分のこともよくわかっていない。
他人から、私は「何を頼りたいと思ってもらえるのか」
「そもそも頼りたいと思われているのかどうか」
「頼りになるとしたら、どのくらい頼りになると思われているのか」
「事実、どれくらい頼れる人間なのか」
「そして自分は、どの程度であれば頼ってもらったことに応えられるのか」

自分では、出来ないことが多いと思っているので、わからない。
そして、頼りにしてもらったのに応えられないときの自分が、
さらに相手にがっかりされる自分が怖くて、
把握しようとできていないと気付いた。

初めてのことだったり、その時の状態によっては、
出来ないこともあって当たり前なのに。

これまで、何度も「期待」を砕かれてきたように思っているし、
その度に、自分は「応えてもらえない存在なんだ」と思ってきたから、
辛いのだろう。

「応えようとしないこと」と、
「応えようとしたけれど応えられないこと」は全く別なのに。

わたしが悲しかったのは、「応えようとしてもらえないこと」だし、
私が期待したり、頼ったりすること自体を、我儘や勝手だと
「否定されたこと」だった。

そして、同時に、相手が「頼ってほしい」と思っているタイミングや
頼ってほしい事柄以外のことで頼ろうとして、
負担や迷惑をかけてしまったことが、申し訳なかったのだ。

誰かに頼らずに生きていくのは無理なのに、縮こまってしまっていた。

そう、そして自分も、「頼ってもらったこと」がないわけではない。
だけど、相手が「何をどのくらい頼りたい」と
思っているのかを分かろうとせず、
「応えられない自分を見たくない」がために、
「自分の都合」ばかり考えていた。

自分の「頑張りたい、認めてほしい、尽くしたい」、
そこからの「愛してほしい、がっかりしないでほしい」が先行して、
余計なことまでやり過ぎたり、自分が疲れてしまったりしている。

自分の「空気の読めなさ、読まなさ」や
「無価値感から逃げていること」で疲れているのに、
相手と自分のせいにして、人間関係は疲れる、
自分のことなんてどうせわかってもらえない、
私は人と関わるのに向いてない、なんて言い訳を作って、
一人の時間を過ごしてしまっている。

一人は気ままだし、楽だし、気にすることが少ない。
だけど、喜びや嬉しさも少ない。

人と過ごすと、苦しいことや悲しいこともあるけれど、
嬉しいことは普段の何倍も嬉しい。

人と、関わっていけるようになりたい。
人と関わる自分を、許したい。

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