必要なもの、不要なもの
優しさと思い遣りを、受け取ることが難しい。
見せかけと上辺にほだされ、騙される。
相手に都合のいいことを、そうは思わせないように甘い言葉と態度でコーティングしたり、
押さえつけてもっともらしく見せて従わせたり、
罪悪感を植え付けてあたかも自分が選んでそうしたように思わせたり、
そういうことを、愛情だと教え込まれてきた。
だから、すぐ勘違いする。
その環境が「正しい」と思い込む。
本当の優しさと思い遣りには、なかなか気付けない。
違和感を感じることすらない。見逃すのだ。
すれ違う他人のように、コンビニで売ってるお菓子のように、わたしの世界からすり抜けていく。
なんて、悲しいことだろうか。
なんて、寂しいことだろうか。
そうしてまでも、両親を信じてきた。
両親から与えられる「愛情に見せかけたもの」を飲み込んできた。
消化できなくて、溜まって、腐って、爆発する。
爆発したことを見ないふりをして、忘れたふりをして、また、抱え込む。
もう、こういうことは終わりにする。
必要なもの、大切なものは受け取って、不要なものは流す、返す、明け渡すのだ。
わたしにはもう不要だから、これまでは、生かしてもらったけれど、もう、不要だから。
これまでありがとうございました。