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ばらばらの自分

これまでずっと、両親が思う「いい子」を追い続けてきたと実感する。

「わたし」なんてものはずっと隅に追いやられて、見ないふりをされ、
ぐしゃぐしゃに潰されて、隠されて、沈められてきた。

両親といっても、価値観が全く違う人たちなので、
あの人たちから伝わってくる「いい子」も真逆というか、全く違う。

父にとっての「いい子」は、全て言うことを受け入れる子。
親の言うことを聞き、歯向かわず、親を信じる、奴隷のような子。

母にとっての「いい子」は、手がかからない子。
母を巻き込むような迷惑や問題を起こさず、例え何か失敗したとしても
母が対応できる範囲に収まる子。

言葉にすると似てしまったが、父と母が真逆なので、
レベルというか、内容というか、とにかく違うのだ。

父は甘ったれで、自分を受け入れてほしい、わかってほしい人で、
しかも世間知らずなので、常識と比べるととても狭いとしか言いようのない父の物差しで物を見るし、それをあたかも一般論かのように話してきて、
押し付けてくる。悪気がない分、とてもたちが悪い。
だから、父の教えというか、私を押し込めたい籠は、とても窮屈で、
理不尽で、世間からずれていて、自由を奪われる。

母は「共感」をどこかに置いてきた人なので、人の思いも痛みもわからない。人に興味もない。だが、一見大人しそうなので、害がなく弱そうに見せるのが上手くて、深く関わらないと敵を作りにくい、おかしいところがバレにくいし、他人に対して酷いことが分かりにくい。常に助けてくれる人間を見つけるのが上手く、そのため困ったことがあっても切り抜けるし、なかなか自分を乱すことがない。
思いも痛みもわからないので、些細なことでは手をかけないし、わたしが困っていることや悩んでいることにも、そして喜んでいることにもなかなか気付かない。たとえ気付いたとしても深く介入しようとせず、「本人が決めることだから」と分かったフリをして距離を取ろうとする。
だから、母にとって手のかからない子は、勝手に自立して勝手に決断して
勝手に進めて勝手に成功する子、なのだ。
例え問題を起こして母に頼ってきたとしても、それがある程度のおカネで解決できることなら、守ってくれる人もいるから対応できるし、母自身が弱ることもない。
だが、心の問題や気持ちの問題は、分からないから解決できない。
そういうときは、弱いフリ、分からないフリをして逃げる。

片方からは行動を抑えられ、
片方からは行動せざるを得ないように望まれていた。
だからきっと、その2人に刷り込まれた私が無意識に選ぶ選択肢は、
とても狭くて、とても歪んでいる。
狭い中も、グラデーションではなく、きっと間が抜けてちぐはぐだと思う。

そして、父と母、どちらの価値観を見ても、望む「子供」はいても
「わたし」はどこにもいない。

父と母が「わたし」を見ずに、潰して、追いやって、蔑ろにして、無視して、殺してきた。
そして、律儀に、「わたし」も「わたし」を見ずに、潰して、追いやって、蔑ろにして、無視して、殺してきた。
わたしに関わる人のことも、見ずに、潰して、追いやって、蔑ろにして、無視して、心の中で殺してきたのだ。

父と母を信じてきたから、父と母を好きだと思っているから、
その教えを守ってきた。その結果の、今のわたしは、とても生きづらい。

喧嘩が出来るほど、指摘し合えるほど、仲の良い友達や恋人もいない。
信頼している人はいるが、自分への信用や信頼がない。
失敗を繰り返して、成功しないことを繰り返して、自分を虐め続けている。

本当に守らなければいけないのは、「わたし」だ。
本当に大切にしなきゃいけないのは、「わたし」だ。
父と母の教えを守るんじゃなく、父と母を、
本当の「わたし」を通して大切にしなきゃいけない。

父と母を軸につくってきた自分を見つめて、感じて、疑って、壊して、
知って、建て直さなくちゃいけない。
もう、「答え」を外に探すのは、終わりにする。
自分の中に、もっと深く、潜る。

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