家族の中で、唯一の味方

私には、血の繋がった家族の中で唯一味方がいた。
「いる」、じゃない、「いた」。

父の兄、私にとっての叔父が、唯一の味方だった。
私の記憶の中の叔父は、自分のこだわりを持ち、頭の回転が速くて、
優しくて、ユーモアがあり、いつも私を笑顔にさせてくれた。

叔父は実家(私の住まい)からは遠く離れ、一人で大阪に住んでいた。
毎年、2カ月間とか3カ月間くらいの長い期間、実家に遊びにきてくれて、
その間は毎日のように一緒に遊んでくれていた。
大阪に戻ってからは、幼い私とFAXを何通も何通もやり取りしてくれて、
距離が離れていてもずっと私を笑顔にしてくれた。

私が生まれる前からずっと、年に1度は実家に帰ってきていたらしいが、
その頃は滞在するのは長くても1週間ほどで、滞在中はほとんど家族の誰とも話さず、部屋で一人過ごしていたらしい。

私の記憶の中には、とても優しくて楽しい叔父しかいないのだが、
聞いたところによるとそれは私が生まれてからだったようだ。
それまでとは人が変わったように、私を可愛がってくれていたみたいだ。

叔父が滞在している間は、私を保育園にも迎えに来てくれたし、そのまま公園にも一緒に散歩に行ってもらったし、デパートに行ったりもしたし、
一緒にジェラートやケーキを食べてくれたし、テレビも一緒に見て、たくさん一緒に笑ってくれた。
海外のコメディやドラマが好きだった叔父は、フルハウスやシンプソンズを私に教えてくれて、一緒に見ては笑いあっていた。

私は叔父が来ると、小さい時はずっと叔父の膝の上に座って離れなかった。
大きくなってからは流石に膝には座らなかったけど、狭い狭い机で、
叔父の隣に座って離れなかった。

叔父は私を受け止めてくれて、認めてくれて、一緒に笑ってくれた。
私は叔父に出会って、生まれて初めて子ども扱いをしてもらえた。
分からないことを教えてくれて、冗談でからかってくれて、
また一緒に笑って、ただただ、姪として、そして自分よりも何倍も
幼い子供として可愛がって、そして、私を知ってくれた。

4~5歳のわたしと、FAXのやり取りをしてくれていたが、
きっと、私の書いたものなんて、何が書いてあるかも
よく分からなかっただろうと思う。
それでも返事は必ずくれたし、イラストを描いてくれたり、
ふざけてくれたりと、本気で遊んでくれた。

叔父のこだわりを持っているところも好きだった。
よく夏に遊びに来てくれていて、夏の叔父の部屋着は絶対に浴衣だった。
お気に入りの下着と、お気に入りの浴衣を身に着け、
シャワーやお風呂の後は、なんだかいい匂いのする愛用の化粧水で肌を整え、愛用の整髪料で髪も綺麗に櫛を使ってまとめる。
その光景は、横で見ていて、「あぁ、気に入っているものを身にまとっているんだな」、と、すぐに分かるくらいだった。
その所作は、誰かに自慢するとかの外へ向ける気持ちじゃなく、
ただただ叔父が好きで気に入っているものを使っているだけ、
ということがひしひしと伝わってくるものだった。
私はその所作も、振る舞いも大好きだった。
タバコはいつもピースだった。私はタバコが嫌いだったけど、叔父のタバコだけは好きだった。

私にとって叔父は、唯一の親友だったのだ。
大好きで、大切で、一番の味方だったのだ。

叔父は、心臓病だった。拡張型心筋症という病気で、
心筋が肥大して上手く全身に血液が送れなくなる病気だった。
祖父も同じ病気だったらしい。
きっと、優しすぎて、繊細すぎて、抱え込みすぎて、
いつも心臓に負担をかけていたんだと思う。

今思えば、2カ月も3カ月も住んでいるところを離れて実家に滞在していたから、仕事はもうしていなかった、できなかったのかもしれない。
母と父が、「叔父さんにお金を送らないと」と話していた記憶もあるから、
ぎりぎりの生活をしていたのかもしれない。
心臓病だけど、タバコも吸っていたし、もしかすると自立できていないところや、尊敬できないところもある人だったのかもしれない。

だけど、どう考えても、どう思い出しても、私の唯一の友達だった。
唯一の支えだったし、唯一甘えられる人だった。

小学校4年生の夏、その前か、前の前の年に遊びに来て以来
1~2年ほど会えていなかった叔父は、突然この世を去ってしまった。
大阪で、一人で、死んでいたのを発見されたらしい。
母と父と叔母で、確認と遺体を引き取りに大阪へ向かったのだが、
その時私は1人で母の実家におり家を離れていたこともあって、
一緒に大阪には連れて行ってもらえなかった。
夏場で、家で一人で亡くなっていることから、
連れていけないと判断されてしまった。

次に私が出会った叔父は、もう、骨壺の中で、
ほんの少しの骨になってしまっていた。
白くて、小さくて、綺麗な骨だった。
叔父の面影も、温度も、何もかもなくなってしまっていた。
お別れも、ありがとうも、何も言えていないのに、
もう二度と会えなくなってしまった。

母の実家にいた私が、電話で叔父が亡くなったと聞いた時、
私の顔から血の気が一気に引いて、真っ青になったらしい。
聞いた瞬間、地面が、足場が全部崩れていくような気持ちだった。
気持ちも頭も追いつかず、死んだなんて、もう二度と会えないなんて、
全く受け入れられなかった。
もっと一緒に遊びたいことがあった。もっと一緒に笑いたいことがあった。
もっと沢山話して教えてほしかったし、もっと一緒にふざけていたかった。
これからも色んなことを話したかったし、色んなことを支えてほしかった。
つらいことも、叔父と笑っていたら忘れられたのに、
私の居場所は急に消え失せてしまった。

出来るならもう一度会いたい。会って、今まで会ったことを沢山話したい。
叔父の考えていたことや、人生や、思いも教えてほしい。
支えてくれたことのお礼が言いたい。最後に会えなかったことを謝りたい。

あの時にもらった愛情を、あの時にもらった嬉しさを、
悲しさで塗りつぶしちゃいけない。
忘れないで、思い出して、飲み込まれないで、
もっと知って、育てていきたい。

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