見出し画像

仲間・友達・繋がり

両親との関係を掘り下げたり、思い出したりすると、
私の人間関係や、人間関係に関する価値観は歪んでいたり、
自分が欲しいものとは違っていたりするな、と思う。

「役に立たなければいけない」「相手を守らなければいけない」
「自分のことは後回しにしなければいけない」「無理しなければいけない」
「好意は受け取らないといけない」「受け止める側でないといけない」
「否定してはいけない」「間違ってはいけない」「失敗してはいけない」

ざっと書き出してみたが、なんてがんじがらめで、
なんて息苦しい価値観だろうか、と思う。

「自分がどうしたいか」より、「相手がどうしたいか」を考えたり感じることが多いし、「自分なんか」が相手を遮ってはいけない、と思っている。

こう書くと一見「献身的」なようだし、「優しい」ように見えるが、
実際は全く違う。

「相手のため」ではなく、「自分の身を守るため」に、
こういう価値観を選択していることが多い。

「いいこと」をしているフリをすれば、
「自分のやりたいこと」をしなくて済む。
「自分のやりたいこと」をしなくて済めば、
ずっとぬるま湯に浸かっていられるし、誰かに甘ったれることができる。

子供の頃に甘やかしてもらえなかったことを恨み、悲しみ、
親にしてもらえなかったそれを、「他人で埋めてもらおう」としている。

実際は別に、目の前の相手は、役に立ってほしいとか、守ってほしいとか、
優先してほしいとか、無理してくれとか、受け止めてくれとか、
否定しないでほしいとか、失敗するなとか、思っていないかもしれない。

もし思っていたとしても、それは相手の都合であって、
本来なら私の与り知らぬ領域のことだ。

他人の領域を侵さない人、本当に他人を尊重できる人は、
私が例え「役に立たなくても」、それで私を責めることはしない。

その場合はもしかすると「繋がる点がなくなる」かもしれないけれど、
お互いにとって交わらない、交われないのであれば、
それはしょうがないことなのだと思う。


こういう概念というか、意識の部分も然りだし、
少なからず私は、「相手のため」のフリをしながら
「自分の気持ちを殺す」ことで、疲れてしまう時がある。

自分の身を守ることしか見えていないので、
結局「相手の役に立たない」ような空振りの時だって多くて、
その結果は、相手にも余計に気遣わせてしまうことも多い。
「心の距離」が近づかないのだ、一向に。

「近づかない」ことで、また身を守り、その場に留まる。

本当は、自分から、壁を越えて、「役に立つだろう自分」を辞めて、
「正直な自分」を磨いて、伝えて、そうやって繋がっていきたい。

幸いなことに、お世話になっている人が作ってくれた「場」と
「仲間」がいてくれる。

そして、自分も「場」と「仲間」をつくっていきたい。
上下関係や、他人の領域に入りこむ関係ではなくて、
お互いを尊重し合えるような、場を、仲間を、繋がりをつくって
友達になっていきたいと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?